翻訳と辞書
Words near each other
・ 長宗我部俊宗
・ 長宗我部信能
・ 長宗我部信親
・ 長宗我部元秀
・ 長宗我部元親
・ 長宗我部元親百箇条
・ 長宗我部元門
・ 長宗我部兼序
・ 長宗我部兼綱
・ 長宗我部右近大夫
長宗我部国親
・ 長宗我部家
・ 長宗我部康豊
・ 長宗我部忠俊
・ 長宗我部文兼
・ 長宗我部氏
・ 長宗我部氏掟書
・ 長宗我部水軍
・ 長宗我部盛恒
・ 長宗我部盛澄


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

長宗我部国親 : ミニ英和和英辞書
長宗我部国親[ちょうそかべ くにちか]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [そう, しゅう]
 【名詞】 1. sect 
: [われ, が]
 【名詞】 1. me 2. oneself 3. self 4. ego 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

長宗我部国親 : ウィキペディア日本語版
長宗我部国親[ちょうそかべ くにちか]

長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか)は、戦国時代土佐国大名長宗我部兼序の嫡男。長宗我部氏復興に尽力し、野の虎と評される。
== 生涯 ==
永正元年(1504年)、長宗我部兼序の嫡男として生まれる〔『長元物語』では文亀3年(1503年)。『土佐国蟲簡集』では文亀2年(1502年)の出生となっている〕。幼名は千雄丸。
通説では、永正5年(1508年)、父・兼序が本山氏などに攻められ居城の岡豊城で自害した際に、国親は落ち延びて〔家臣の近藤某という者が国親を守って落ち延びた〕、一条房家に養育された〔『土佐物語』によると長宗我部文兼とその父である長宗我部能重の時代に一条経嗣の厚恩を受けていたという〕。永正15年(1518年)、一条房家の仲介により本領の江村・廿枝郷を戻されて岡豊城に復帰し、以後は長宗我部家の再興に尽力した〔山本大『長宗我部元親』(1987年、吉川弘文館)17頁〕。しかし近年の研究によると、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年頃に息子・国親へ家督を譲っている〔「歴史人」2012年10月№25 戦国武将の全国勢力変遷マップ(KKベストセラーズ)85頁〕。
土佐守護を兼ねる室町幕府管領細川高国より偏諱(「国」の字)を受けて国親と名乗る(三弟の長宗我部国康(くにやす)も同様である)。
国親は吉田周孝を登用して内政や軍備の充実に努めた。天文13年(1544年)、かつての仇敵である本山茂宗の嫡男・茂辰と自分の娘を婚姻させた〔国親の富国強兵に危機感を抱きだした茂宗が攻めようとしたため、一条家が仲介したという(『土佐物語』)。ただし異説として茂宗が国親を恐れて婚姻を申し出たとされている(『土佐軍記』)〕。
天文16年(1547年)〔年代に関しては異説もある〕、近隣の大津城を攻めて天竺氏を滅ぼした。次いで大津の南にある介良の横山氏を屈服させ、下田の勇猛で名高い〔『土佐物語』には「数度の高名隠れなき勇猛の士」とある〕下田駿河守を討って下田城を落とした。さらに細川定輔(十市細川氏)を屈服させ、定輔の次男・池頼定も子の池頼和に娘を与えることで懐柔した。こうして長岡郡南部を制圧した。この勢力拡大で近隣の領主も恐れをなして布師田や一宮の領主も国親に降伏し、土佐郡南西部も制圧することになった。また父を滅ぼした仇敵の山田氏を天文18年(1549年)秋に滅ぼした。また、弘治2年(1556年)には三男の親泰を香宗我部氏に養子として従属化し、土佐国人の従属化を進めていくと同時に高知平野の制圧も成し遂げていった。天文年間末期に剃髪入道し、瑞応覚世と号した〔『土佐物語』によると剃髪の理由は幼年期に父母を失い、幸運にも御家再興を成し遂げるも常に茨の道で苦しみ、父の追福と仏道帰依の志が強まっていたという。これに対して朝倉慶景は天文24年(弘治元年、1555年)の本山茂宗の死を悼んで両家の関係強化を意図したものであったとする説を唱えている(朝倉「永禄三年五月の長宗我部氏による長浜城攻めについて」『大豊史談』38号、同「戦国末期の国人本山茂辰とその家族たち」『土佐史談』232号のち平井上総 編『シリーズ・織豊大名の研究 第一巻 長宗我部元親』(戎光祥出版)に所収) 。〕。
弘治元年(1555年)になって本山茂宗が病死し、娘婿の茂辰が後を継ぐと本山氏を討つべく兵を挙げた〔茂宗の死は本山氏にとって打撃であったという〕。弘治2年(1556年)、国親は本山家臣の秦泉寺氏を服属させ、さらに大高坂氏国沢氏も討った。
土佐物語』によると、永禄3年(1560年)、岡豊より長宗我部方の兵糧を積んだ船1艘が種崎に向かったが、その途中で潮江より本山方の船2艘が漕ぎ出して襲撃し、兵糧を奪った〔宅間『シリーズ藩物語、土佐藩』、P10〕。このため国親はその報復のために元家臣だが訳あって本山方についていた建築の達人である福留左馬丞を甘言で誘い、長浜城の城門を簡単に開くように工作させたうえでに夜討ちをかけて5月26日長浜城を攻略した〔宅間『シリーズ藩物語、土佐藩』、P11〕。茂辰は朝倉城に2000余の軍を集めて長浜城奪還を目指したが、国親軍1000人の奮戦により5月27日に兵力で勝りながら敗れ、浦戸城も国親の支配下に入った〔。
しかし直後、病を得て6月15日に急死した。享年57〔享年59ともいわれる〕〔。家督は嫡男・元親が継いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「長宗我部国親」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.