|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 長 : [おさ] 【名詞】 1. chief 2. head ・ 宗 : [そう, しゅう] 【名詞】 1. sect ・ 我 : [われ, が] 【名詞】 1. me 2. oneself 3. self 4. ego
長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期の土佐の大名・武将。長宗我部氏第22代当主。長宗我部元親の4男。 父・元親の死後に長宗我部家の家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで西軍に属すが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。しかし、兄・津野親忠を殺したことをとがめられ、領国を没収され浪人となった。のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大阪城に入城、大坂の陣が勃発し、激戦奮闘を繰り広げるが敗北した。 == 生涯 == === 家督相続 === 天正3年(1575年)、四国の覇者として名高かった長宗我部元親の4男に生まれる。幼名は千熊丸。 天正14年(1586年)の戸次川の戦いで長兄の長宗我部信親が戦死すると、兄の香川親和や津野親忠を推す一派と家督相続をめぐって争うが、父の強硬な後押しがあり〔重臣の久武親直にも支持された〕、天正16年(1588年)に世子に指名された。この家督相続には吉良親実をはじめとして反対する者が少なくなかった。その理由のひとつは、元々盛親は兄弟の中でも傲慢で短気な性格から人望が薄く、嫌悪感を持つ者がいたからである(しかし元親はそれらを全て処断している)。元親が少年である千熊丸を世子に指名した理由は、親和と親忠は他の家系を既に継いでいたこと〔ただし、吉良親実を別家させて、盛親に吉良氏を継がせる構想があり、天正18年に作成された弘岡荒倉神社の棟札に記された「吉良千熊丸」を盛親に比定する説もある。〕、何よりも溺愛していた信親の娘を娶わせるには上の2人では年齢差がありすぎたためともされている。豊臣氏の重臣・増田長盛を烏帽子親として元服し、「盛」の一字を授かって盛親と名乗った。 長宗我部家の家督に決定した後、父・元親と共に長宗我部氏の共同支配者として土佐の支配を行い、豊臣氏による天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの朝鮮出兵に参加する。また、文禄3年(1594年)以降、元親発給の文書が減少して、盛親発給の文書が増加するなど、事実上の代替わりを果たす。更に慶長2年(1597年)3月24日に父の元親と共に制定した「長宗我部元親百箇条」を発布している。 だが、こうした流れの一方で、家督継承の経緯の異常性からか、豊臣秀吉及び豊臣政権は盛親を長宗我部氏の当主として最後まで認めなかったとする見方がある。武家官位を重要視する豊臣政権は大名およびその後継者に一定の官位を授けていた〔例えば、島津氏の後継者であった島津忠恒(通称:又八郎、後の家久)は、長宗我部元親が没した慶長4年(1599年)、家督継承前にも関わらず同氏の後継者として少将を授けられている。〕が、盛親が官位を受けた記録は無く、公式には通称の「右衛門太郎」のままであった(「土佐守」などは非公式な通称とされる)。慶長4年(1599年)5月、父・元親の死去により、家督を継いで土佐の国主となる。だが、その後も盛親の長宗我部氏の家督と土佐の国主の継承を豊臣政権が承認したことを示す記録は存在せず、この異常な状況は翌年の関ヶ原の戦いまで続くことになる〔津野倫明「長宗我部盛親の家督継承」(初出:図録『長宗我部盛親』(高知県立歴史民俗資料館、2006年)/所収:津野『長宗我部氏の研究』(吉川弘文館、2012年)ISBN 978-4-642-02907-0)〕。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こる。当初、盛親は徳川家康率いる東軍に与しようと考えていたとされるが〔家臣の十市新左衛門・町三郎右衛門を家康の下に派遣した〕、近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれ(徳川方へ送った密使が捕らえられ、連絡が取れなかったとも言われる)〔『古城伝承記』〕、やむなく西軍に与した。結果的に西軍主力の一角となった盛親は東軍に与する伏見城や安濃津城などを落としながら関ヶ原に向かい、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家らとともに家康本陣背後の南宮山に布陣した。 しかし、合戦においては徳川家康に内応する吉川広家によって毛利隊は動けず、毛利隊の後方に布陣していた長束隊や長宗我部隊も毛利隊の動向が分からず、動くことができなかった(宰相殿の空弁当の故事で知られる)。最終的に戦闘に参加しないまま西軍は壊滅した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長宗我部盛親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|