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長尾 顕景(ながお あきかげ)は、戦国時代の武将、上野の総社長尾氏の当主。庶流高津長尾氏の長尾定明の子。 関東管領上杉顕定に仕えて一字を拝領する。永正7年(1510年)に越後の長尾為景との戦いに加わった父定明が長森原の戦いにおいて顕定とともに討たれたため、その後を継ぐ。 大永4年(1524年)、従弟で総社長尾氏当主の長尾顕方が山内上杉家の家宰職を足利長尾氏の長尾景長に奪われたことを恨んで北条氏綱と内応した。これを知った関東管領上杉憲寛によって顕方は廃され、代わりに顕景が当主となった〔落合厚志「長尾顕方」(『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年) ISBN 978-4-642-01348-2)〕。 だが、顕景も白井長尾氏の長尾景誠とともに長尾為景と通じたため、大永7年(1527年)に憲寛の命を受けた上野長野氏に攻められて降伏、出家して知龍斎元昶(ちりゅうさいげんえい)と名乗って家督を景孝に譲った〔落合厚志「長尾顕景」(『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年) ISBN 978-4-642-01348-2)〕。享禄4年(1531年)には既に出家していたことが確認できる。 ただし、近年になって黒田基樹は顕方・顕景交替の経緯を再検討し、顕方は永正の乱で関東管領を追われた上杉顕実の家宰であり、同乱で勝利した上杉憲房が顕方を追放して顕景を総社長尾家を継がせたこと、顕景が背いたのは大永4年(1524年)の事で顕景は北条氏綱・長尾為景と3者連携していたとしている〔黒田基樹「足利長尾氏に関する基礎的考察」・「惣社長尾氏に関する基礎的考察」『戦国期 山内上杉氏の研究』(岩田書院、2013年)ISBN 978-4-87294-786-1(前著原論文:2009年/後著:新稿)〕。 その後の動向は不明だが、上野への武田信玄の侵攻で総社長尾氏が所領を失った時に老齢の顕景も一族とともに越後の上杉謙信を頼ったとも言われている〔「惣社長尾系図」に従えば、顕景は元亀元年6月29日没とされ、総社長尾家が所領を失った当時健在であったことになる。ただし、黒田基樹は顕景は文明年間の生れと推定され、元亀年間の死去は誤りで、享禄4年から遠くない時期に没したとする(黒田「惣社長尾氏に関する基礎的考察」)。〕。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長尾顕景」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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