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長岡安平(ながおか やすへい、1842年 - 1925年)は、日本の造園家、作庭家。また茶人で、「祖庭」と号した。日本人初の公園デザイナー。明治初期から大正にかけて東京府の公園係長などとして活躍。数々の名園を生み出した。明治年代から大正初期に至る間の造園技術の第一人者、また公園行政官のパイオニア。 == 人物 == 1842年(天保13年)肥前大村藩士として大村城下に生まれる。小さい頃から病弱だったため、藩士の子息に課された武芸等は嗜まず、そのためもっぱら動植物を好み、飼育や栽培等といった方面に才を見出していたという。 1870年(明治3年)郷土の先輩である楠本正隆に従って上京、1872年(明治5年)楠本が新潟県令に就任すると彼に従って新潟に赴く。楠本は新潟時代、新潟遊園(現在の白山公園)の築造計画をしているので、多くの公園研究者は長岡がこの公園の築造に関係したものとしているが、関連記録等は残されていない。 楠本は1875年(明治8年)12月からは東京府知事に就任。長岡も1878年(明治11年)に楠本に従って上京する。東京府土木掛に嘱託され、明治6年太政官布告によって生み出された東京府立公園や街路並木の改良新設を行っていた。以後、生涯に渡り公園や街路の計画設計、樹木植栽、工事及び維持管理等に従事した。 東京市発足に伴い、府立公園は1898年(明治31年)東京府より東京市に引き継がれたため、長岡も東京市役所に転職。市役所でも公園の仕事に関係した。1900年(明治33年)にいったん辞して翌年再任。この間は特に1897年(明治30年)に設置された公園改良取調員会の元、東京市区改正事業に伴い設置予定していた日比谷公園の設計案の作成にあたっていた。日比谷公園は結局本多静六らの設計によって1903年開園する。 1902年に逓信省営繕課に移り、逓信営繕が関わる諸官舎庭園の設計と監督指導に従事。1904年(明治37年)からは東京市嘱託になり、1914年まで東京市内の公園関係の職に従事した。つまり東京の公園業務には、1878年から1914年末まで40年間の長期にわたって関わった。1925年(大正14年)12月、84歳で長逝する。墓地は青山霊園にある。 長岡の住まいは長く旧芝公園内にあった。旧居址の碑が東京市において長岡の部下として公園事業を手伝い、後に公園部長となった井下清らによって建てられたが、現在は消滅。 公園ばかりでなく個人庭園の設計まで依頼され、数多く作庭を行った。1914年、東京目白の相馬家から依頼されて作庭した「相馬子爵庭園設計案」が残されている。井下清が編纂した長岡の遺稿集に掲載されているが、この庭園も現在残っている。新宿区立おとめ山公園である。 小林治人著『「設景」その発想と展開』では"長岡安兵衛"と記されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長岡安平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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