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細川 忠興(ほそかわ ただおき)/長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。 足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。 足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。 == 生涯 == === 幼少期 === 永禄6年(1563年)11月13日、室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝(幽斎)の長男として京都で生まれる。母は沼田光兼の女・麝香(のちの光寿院)〔諏訪勝則「幽斎・忠興関係年譜」(米原正義編『細川幽斎・忠興のすべて』新人物往来社、2000年)p.226〕。 義輝の命により一族・奥州家の細川輝経の養子となるが、この養子縁組は系譜上のものであり、その後も実父・藤孝と行動をともにし、領国も継承した。 永禄の変の後、藤孝や明智光秀らは尾張・美濃の大名・織田信長を頼って義輝の弟・義昭を第15代将軍に擁立したが、やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従した。忠興は信長の嫡男・信忠に仕えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「細川忠興」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hosokawa Tadaoki 」があります。 スポンサード リンク
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