|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 長 : [おさ] 【名詞】 1. chief 2. head ・ 崎 : [みさき] (n) cape (on coast) ・ 派 : [は] 1. (n,n-suf) clique 2. faction 3. school
長崎派(ながさきは)とは、江戸時代の鎖国体制下において唯一外国(オランダ・中国)との交渉があった長崎で生まれた様々な諸画派の総称である。 この諸画派は、漢画派(北宗画派)・黄檗派・唐絵目利派(写生派)・南蘋派・南宗画派(文人画派)・洋風画派・長崎版画の7つに大別できる。これらに共通の主張や特定の様式があるわけではない。 長崎を通じて外国から流入した新様式が上方や江戸の中央画壇に広まり新興の絵画芸術を生む契機となった。とりわけ南蘋派の影響は大きく、近世絵画に写実性を追求する姿勢が芽生えた。 なお、篆刻にも源伯民を祖とする長崎派が登場する。こちらも同様の歴史的背景から中国黄檗僧によってもたらされた工芸美術であるが画派とはいえず、ここには分類されない。 ==概説== 長崎は開港以前からキリスト教と深い関わりをもち、その後も一大布教地域であったため17世紀初めには市内に多数の信者を有し10以上の教会が建てられていた。教会の中の画学舎では布教や礼拝用の聖画像などがさかんに制作され、信者や制作者は既にキリスト教美術の洗礼を受けていた〔16世紀初頭に始まる宗教改革では偶像崇拝が否定されたが、カトリックは逆手にとって聖母像を布教の道具として最大限に利用したが、日本では大歓迎され、宣教に絶大な効果を生んだ。やがて輸入品だけでは足りなくなり、画学舎が設立された。その中にはジョバンニ・ニコラオもいた(宮下規久朗『欲望の美術史』(光文社新書 2014年p.145))。〕。秀吉のキリスト教禁教以後も細々とこのキリスト教美術の技法が「蛮流」として受け継がれ、文献に生島三郎左や野沢久右衛門という洋風画法を取り入れた画人が存在したことが伝わっている。しかし、18世紀後半にはすっかり途絶えてしまいその作品もまったく伝わっていない。 ともあれ、こうして長崎には洋風画を受け入れる土壌が培われたのであるが、一方で頻繁に画僧・画人が中国から渡来した。正保年間の黄檗僧逸然性融の来日が嚆矢となり、以後沈南蘋・伊孚九・費漢源などが来日した。 このキリスト教美術の浸透・中国文化の流入に加え、狩野派・土佐派などの従来からの美術様式や、職業的な目的をもった唐絵目利の画家などが長崎という一地域に渾然となって存在し、長崎派の諸派を発生させる源泉となった。 このように長崎派は、江戸時代の長崎の特異な位置づけと深く関係しており、その絵画史は次の3つの時期に分けられる。〔越中哲也『長崎の美術・工芸 ― 長崎文化史序説』蝸牛社 1981年〕 *第1期は開港した元亀2年(1571年)から長崎からポルトガル人が追放される寛永16年(1639年)まで。 *第2期はポルトガル人退去後、明末清初(17世紀中頃から終わり)の戦乱を逃れて亡命した中国人によってもたらされた中国文化、とりわけ黄檗文化が伝播した時期。 *第3期は19世紀初頭の文化文政期に唐絵目利の画家や町民画家と清朝の画風が混ざり合って相互に影響し活況を呈した時期。 300年近くにもわたり海外からの文化的・美術的な刺激を真っ先に受けた長崎の特異な土壌が長崎派を醸成した。その都度、絵画の新様式を中央に伝播させ、日本画壇に新興芸術を誕生させる役割を担ってきた。しかし、開国後一時南宗画(文人画)系の祖門鉄翁・木下逸雲らが人気を博したものの、長崎派はしだいにその輝きを失い、明治以降は急激に停滞しその役割を終えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長崎派」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|