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長崎 浩斎(ながさき こうさい)は江戸時代後期の蘭方医。幼名は哲次郎、名は(剛)健、医号は愿禎、字は中正。本姓は橘氏。越中国高岡で代々町医を務める長崎家5代目に生まれ、高岡で高峰幸庵、江戸で大槻玄沢等に学び、帰郷して医業を行った。 == 生涯 == === 修学時代 === 寛政11年(1799年)9月7日、越中国高岡に生まれた〔寺畑(1992)〕。享和3年(1803年)妹虎と天然痘に罹り死に瀕したが、快復した〔。文化4年(1807年)鳥山屋次左衛門に手習いを受け、文化6年(1809年)繁久寺一水和尚に書を学んだ〔。文化9年(1812年)父の命で名を健、号を康斎とした〔。 文化10年(1813年)高峰幸庵が高岡に来訪し、大田口町に滞在した際、泉屋藤四郎の勧めで入門し、旅宿の隣に滞在して眼科を学んだ〔。文化11年(1814年)4月1日小竹屋藤右衛門と共に京都に上り〔、賀川玄岱に産科を学び〔、大坂、名古屋、大垣、伊勢神宮、奈良を巡り、6月1日帰宅した〔。 文化12年(1815年)1月寺崎蛠洲に入門して詩を学んだ〔。3月幸庵は東隣に別荘を構えて高岡に定着し、浩斎はこれに「製煉術」「傷寒論」を学んだ〔。文化13年(1816年)瑞龍寺山門再建工事に当たり、久保田甫元と共に詰医者を命じられた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長崎浩斎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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