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長崎 高貞(ながさき たかさだ)は、鎌倉時代後期の武将。執権北条氏の家臣。鎌倉時代後期から末期にかけて北条得宗家の内管領として権力を振るった長崎円喜の子で、長崎高資の弟〔『系図纂要』の「長崎氏系図」では高資の兄に位置付けられており、細川重男の論文「得宗家執事長崎氏」(参考文献参照)ではこの説を採用しているが、『鎌倉殿中問答記録』の文保2年(1318年)9月15日の記事で「高資の弟、四郎左衛門」とあり、『保暦間記』にも北条治時と共に出家した(本文参照)人物として挙げられる「長崎四郎左衛門尉」の付記に「円喜子 高資弟」とあることから、高資より年少であったと考えられる。〕。通称は四郎左衛門(尉)。諱の「高」の字は主君である北条高時の偏諱とみられる〔細川重男は長崎高綱(円喜)・高資の「高」の字を高時の偏諱と推測しており(論文「得宗家執事長崎氏」)、高貞についても同様のことが言えるものと考えられる。〕。 == 略歴 == 延慶2年(1309年)、父・高綱(円喜)の出家に伴って侍所所司を継いだとされている〔細川、2000年、P.171~172。〕。 元弘元年/元徳3年(1331年)、鎌倉幕府軍の軍奉行・侍所所司として上洛。後醍醐天皇が立て籠もる笠置山を攻めた。正慶2年/元弘3年(1333年)には北条治時に従って楠木正成が立て籠もる千早城を攻めたが、同年5月に同城包囲中に六波羅探題陥落・滅亡を知り、元弘3年(1333年)6月に治時と共に出家して建武政権に降伏した〔『北条氏系譜人名辞典』P.118 「長崎高貞」の項(執筆:森幸夫)。〕。 建武元年(1334年)3月21日〔「近江国番場宿蓮華寺過去帳」による(『北条氏系譜人名辞典』P.118)。〕、京都阿弥陀峯で斬首された〔。『太平記』では斬首の日が同年7月9日となっている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長崎高貞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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