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長崎 高重(ながさき たかしげ、生年不詳 - 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日))は、鎌倉時代後期の武将で、北条氏得宗家の被官(御内人)。内管領・長崎高資の嫡男〔『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』P.435。一説に、高資の子を高直とし、高重を高資の兄・高貞の子とする系図もある(『系図纂要』)が、同系図の信憑性は低い(森幸夫 「平・長崎氏の系譜」)。〕。通称は二郎。諱「高重」の「高」の字は主君である北条高時の偏諱とみられる〔細川重男は長崎高綱(円喜)・高資の「高」の字を高時の偏諱と推測しており(細川重男「得宗家執事長崎氏」)、高重についても同様のことが言えるものと考えられる。また、父が改名により「高資」を称した(細川重男「得宗家執事長崎氏」)のに対し、高重は実際に高時の烏帽子子であったと推測される。〕。 == 生涯 == 『太平記』巻第十「新田義貞謀反の事付けたり天狗越後勢を催す事」に拠れば、元弘3年(1333年)5月の新田義貞の鎌倉攻めに際しては新田勢を迎えうつため桜田貞国らとともに入間川へ出陣し、『太平記』巻第十「三浦大多和合戦意見の事」に拠れば、幕府勢が壊滅し敗走する中、奮戦したという。 『太平記』巻第十「長崎高重最期合戦の事」〔この中で高重が「桓武第五ノ皇子葛原親王ニ三代ノ孫、平将軍貞盛ヨリ十三代、前相模守高時ノ管領ニ、長崎入道円喜ガ嫡孫、次郎高重」と名乗りを挙げる場面がある。細川重男は「……平将軍貞盛ヨリ十三代」までを高時までの系譜と解釈している(細川重男「得宗家執事長崎氏」)が、『尊卑分脉』から高時は貞盛から16代目にあたり、貞盛から13代目というのは円喜のことを指すことが明白であるため、平資盛の末裔を称していたことが分かる(森幸夫 「得宗被官平氏に関する二、三の考察」)。〕に拠ると、武蔵国での新田軍との戦闘は昼夜違わず行われ、その回数は80回余、常にその先陣として高重は戦い続けた。各地で敗戦の続く中、北条高時に拝謁し、最期の御奉公を約束して出陣。新田義貞の軍に紛れ込み、義貞の首を狙うが露見。新田軍に大損害を与えた猛攻の後に、北条高時に自害を勧めるため、わずか8騎で落ちた。そして鎌倉東勝寺で、主君高時とともに自害して果てたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長崎高重」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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