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長宗我部 信親(ちょうそかべ のぶちか)は、安土桃山時代の武将。土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男。 == 生涯 == === 出生と活躍 === 永禄8年(1565年)、土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男として誕生。母は元親の正室で足利義輝の家臣・石谷光政の娘(明智光秀の家臣・斎藤利三の異父妹)。 幼少時から聡明であった〔「詞遣ひ、衣紋、立居行跡に至る迄、優にやさし(い)」(『土佐物語』)。「詞寡く礼譲ありて厳ならず、戯談すれどもみだりならず、諸士を愛し(た)」(『土佐物語』)。〕ため父から寵愛され、天正3年(1575年)に元親が中島可之助を使者として織田信長と誼を通じたとき、信長を烏帽子親として信長の「信」を与えられ、「信親」を名乗る。このとき、信長から左文字の銘刀と名馬を与えられた。なお、2013年に発見された『石谷家文書』(林原美術館所蔵〔一般財団法人 林原美術館、岡山県立博物館、2014年06月23日〕)に所収された元親から石谷頼辰(信親の生母の義兄にあたる)に充てられた書状の中でこの信親が一字を与えられた際に信長は荒木村重を攻めていたと書かれており、荒木村重の反乱が発生した天正6年(1578年)に比定する説もある〔平井上総「長宗我部元親の四国侵攻と外交関係」平井 編『シリーズ・織豊大名の研究 第一巻 長宗我部元親』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-125-7 総論(P9-10)〕。 その後は父に従って各地を転戦した。信長没後の天正13年(1585年)、長宗我部氏は豊臣秀吉の四国攻めに降伏し、四国の覇者から転落して豊臣政権配下で土佐一国を領する大名となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長宗我部信親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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