|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 長 : [おさ] 【名詞】 1. chief 2. head ・ 沼 : [ぬま] 1. (n,n-suf) swamp 2. bog 3. pond 4. lake ・ 三 : [み] 1. (num) three ・ 三徳 : [さんとく] (n) three primary virtues: valour, wisdom and benevolence (valor)
長沼 三徳(ながぬま さんとく、生年不詳 - 慶長5年8月23日(1600年9月30日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は三徳斎、三徳入道。子に藤治兵衛、彩雲。 == 生涯 == 美濃国加治田城主・佐藤忠能から斎藤利治、斎藤利堯まで家老として仕え、堂洞合戦、関・加治田合戦、加治田・兼山合戦を戦った。加治田合戦では三徳櫓で防戦したが、嫡子藤治兵衛を失った〔。 斎藤利堯の病死後、後継人を決めていなかったことにより加治田を含めた家中は分裂し、森氏によって斎藤領が糾合されると〔『堂洞軍記』『南北山城軍記』『永禄美濃軍記』〕、三徳は浪人し、利治の子(斎藤義興、市郎左衛門)を絹丸村捨堀で養育し、後に織田秀信に仕えさせた〔。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの岐阜城の戦いでは秀信より招きがあり、「死地を与えられたことは武人の本懐」と喜んで、80過ぎの老齢ながら経帷子、経頭巾、経羽織、猿の毛皮に覆輪をとり着、白葦毛の乗って入城して、七曲の戦いで戦死した(『永禄美濃軍記』)。法名は三徳道乾居士。墓碑は龍福寺にある〔。 長沼家はその後、次男の彩雲が跡を継いで、加治田で庄屋などの村役を務めた。旧屋敷は同地の新町白山神社の西にあったと言われ、裏山に三徳岩と称する大岩がある〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長沼三徳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|