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長沼 健(ながぬま けん、1930年9月5日 - 2008年6月2日)は、広島県広島市中区袋町出身の元サッカー選手・日本代表選手、元日本代表監督である〔日本サッカー 次の1歩へ 協会最高顧問 長沼 健氏に聞く - 中国新聞 〕〔スポーツひろしま第90号 2008年6月30日8頁、広島県体育協会 〕。1994年より第8代日本サッカー協会会長を4年務め、その後同協会最高顧問のほか日本フットサル連盟名誉会長、日本ハンディキャップサッカー連盟会長、日本体育協会副会長、埼玉スタジアム2002場長、NPO法人日本知的障害者サッカー支援機構顧問を務めた。 == 来歴 == === 若年時代 === W杯の第1回大会が開催された1930年の生まれ〔#証言者10-14頁〕〔賀川サッカーライブラリー オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(中) 〕〔長沼健さんの叙勲を祝う会で――。第1回W杯の年に生まれ、サッカーー筋74年 〕。 実家は広島の老舗電気工事業・長沼電業社。祖父の長沼鷺蔵は賀茂郡御園宇村(現・東広島市)出身の広島藩士で、戊辰戦争の際に結成された「神機隊」の参謀〔#大観102頁〕。明治維新後、廣島県警察部に奉職し刑事係を務めた後、数々の事業を起こしその一つが長沼電業社であり、のち広島有数の実業家となり、広島市議会議員などの要職を務めた〔。父親、実兄もサッカー選手〔。広島は野球が非常に盛んな地域であるが、進学した旧制広島高等師範学校附属小学校(現・広島大学附属小学校)には野球班(部)がなく、小学校時から自然にサッカーを始めた〔〔40年間を日本協会とともに 長沼健(上) 〕〔広島大学 中学サッカー班 長沼健氏(本校39回生)のご逝去について 、#本当に186-187頁〕。 1945年15歳の夏、原爆投下の日には広島市内中心部にあった学校での防空当番が前夜にあり、当日7時までいて、その後8キロ西北の疎開先、現在広島ビッグアーチがある付近・沼田(現・安佐南区沼田)まで自転車で帰る途中、家に着く直前被爆した〔〔#本当に188-191頁〕〔#竹内148頁〕。ちょうど山蔭に入ってところで一命をとりとめた〔#覚書176-177頁〕。30分帰りが遅かったら直下だった〔。1週間後、帰ってこない村人の捜索のため市内に入り地獄絵を見る〔〔〔。「あんなにたくさんの死体をいっぺんに見た人は世界にもそんなにいないと思いますよ。それも誰が誰だか分からないんだから」と話していた〔。多くの知人・級友を亡くし、自らも亡くなるまで白血球過多で苦しんでいた。その為、被爆者手帳を持っていた〔〔。後年、海外遠征すると「お前のネイティブタウンはどこだ」と聞かれ「広島です」と答えると、みんな原爆のことは知っていて、「お前は何で生きてるんだ」と驚かれた〔#原爆少年14-16頁〕。外国では広島市民は全員死んだという認識であったという〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長沼健」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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