|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 長 : [おさ] 【名詞】 1. chief 2. head ・ 浜 : [はま] 【名詞】 1. beach 2. seashore ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight ・ 戦い : [たたかい] 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict
長浜の戦い(ながはまのたたかい)は永禄3年(1560年)5月28日に戦国時代の土佐国に割拠していた長宗我部氏と本山氏の間で行われた合戦。長浜表の戦いとも呼ばれる。長浜の戦いの本戦である戸ノ本での戦いは、長宗我部元親が初陣を飾った戦いとして有名である。 == 背景 == 応仁の乱後、守護細川氏による統治体制が弱まった土佐では「七雄」と呼ばれる小領主が台頭、割拠し、その中でも細川家の有力被官であった長宗我部氏が勢力を伸ばした。ときの当主・長宗我部文兼は戦乱を逃れるために上方から下ってきた一条教房を国司に迎え、一条氏を盟主とする国人の共同体を成すことで、土佐国内は一旦の安定を見る。一時的に衰退したとはいえ徐々に勢力を取り戻した細川氏の後ろ盾に加え、新たに名門・一条氏の威光を得た長宗我部氏はその後数代に渡って発言力を強め、国親の父にあたる兼序もまた積極的に領国の統治・勢力拡大にあたった。 しかし兼序は文武に優れた人物であった反面、次第にその地位を笠に着た傲慢な振る舞いが目立つようになる。永正四年(1507年)の政変により細川政元が暗殺され、再び情勢が不安定に陥る(永正の錯乱)と、国人衆の不満は爆発し、本山氏を中心に大平氏・吉良氏・山田氏などの反長宗我部連合軍が興った。兼序はこれを迎え撃ち善戦するも、最後は居城である岡豊城に追い詰められ自害。兼序の嫡男・国親は一条房家を頼って落ち延びるが、その勢力は急激に後退し、この一件は長宗我部氏と本山氏の因縁の決定的な発端となった。また、細川氏の影響力が事実上消滅した国内における室町幕府の支配体系は完全に崩壊し、土佐は諸氏が武力を以て争う戦国時代へと突入する。 一条氏の庇護を受けた国親は永正十五年(1518年)に旧領・岡豊への復帰を果たす。国親は吉田孝頼らの後見のもとで長宗我部家の復権に努め、山田氏、香宗我部氏、吉良氏らを次々に併呑して勢力を拡大する傍ら、一領具足を考案・導入して富国強兵を推し進めた。一方で当時の土佐国内で最大の実力者となっていた本山氏の当主・本山茂宗(梅慶)に対しては、娘を茂宗の嫡男・本山茂辰に嫁がせて縁戚関係を結び、雌伏の時を過ごした。この頃にはかつての七雄のうち、生き残ったのは長宗我部氏と本山氏、安芸氏のみとなっている。 天文24年(1555年)に茂宗が死去すると、国親はいよいよ仇敵である本山氏への圧力を強める。これに対して茂宗の跡を継いだ茂辰は、種崎城に舟で輸送されていた長宗我部方の兵糧を、浦戸湾において配下である潮江の住民に略奪させるなどして報復に乗り出し、両者の関係は一気に緊迫する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長浜の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|