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長沢 資祐(ながさわ すけやす、長澤 資祐とも、正徳5年(1715年) - 安永5年3月20日(1776年5月7日))は江戸時代の高家旗本。長沢資親の子。初名は資顕、通称は滋丸、要人。官位は従四位上、土佐守、壱岐守、侍従。 享保14年(1729年)9月28日、初めて将軍徳川吉宗に拝謁し、表高家に列する。延享4年(1747年)3月9日より父の務を見習い、同年7月29日従五位下侍従・土佐守に叙任する。寛延元年(1748年)12月10日高家に列し、寛延3年(1750年)、父の死に伴って8月3日に遺跡を継ぐ。 寛延4年(1751年)7月30日、徳川吉宗の死後の贈官を謝する使いとして京に赴く。宝暦8年(1758年)7月18日、若宮(後の後桃園天皇)の生誕を祝う使いとして京に赴き、9月9日従四位下に昇る。宝暦12年(1762年)、桃園天皇の崩御による法会のため、7月25日に仰せにより京に赴く。明和3年(1766年)将軍徳川家治の元服のため、仰せにより日光山に至る。明和4年(1767年)9月1日肝煎となる。明和5年(1768年)1月15日、英仁親王(後の後桃園天皇)の立太子宣下により松平忠刻に随って京に上り、3月6日に参内し禁裏より正恒の太刀を給い、4月9日従四位上に昇る。 安永5年(1776年)3月20日死去、享年62。法名は日桂。 妻は加藤嘉矩の養女(加藤明喬の娘)。養子に長沢資倍がいる。 == 参考文献 == *「寛政重修諸家譜」第13巻・第21巻 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長沢資祐」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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