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長澤 鼎(ながさわ かなえ、本名:磯永彦輔、1852年 - 1934年3月1日)は江戸時代の薩摩藩士。薩摩国出身。13歳の時藩命でイギリスに留学し、後にカリフォルニアに渡り「カリフォルニアのワイン王」「葡萄王」「バロン・ナガサワ」と呼ばれる。 == 経歴 == 薩摩国鹿児島城下上之園通町(現在の鹿児島県鹿児島市上之園町)にて磯永孫四郎とフミの四男として誕生する〔長沢鼎(磯永彦助)誕生地 - 鹿児島市、2013年8月11日閲覧。〕。生家は代々天文方で、父親の磯永孫四郎は儒学者。 1865年(慶応元年)、13歳のときに森有礼、吉田清成、五代友厚、鮫島尚信、寺島宗則らと共にイギリスに留学する(薩摩藩第一次英国留学生)。他の留学生はロンドン大学に入ったが、長澤は年齢が入学年齢に達していないために、スコットランドのアバディーン・グラマー・スクールに通う。貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの実家に世話になるが、藩の財政事情が悪化し多くの薩摩藩英留学生が帰国すると、慶応3年、性的心霊主義者として知られるトマス・レイク・ハリスを信奉していたローレンス・オリファントの招きで森ら6名で渡米し、ハリスが主宰するキリスト教系の新興教団「新生社(Brotherhood of the New Life)」に入り、信者らと共同生活を送る。薩摩藩留学生のうち何人かはハリスの思想に違和を感じてすぐ離反したが、長澤は森らとともに残り、森らが帰国後も唯一人アメリカに残り、教団で厳しい労働と信仰生活を送りながら、1870年には9月から3か月ほどコーネル大学にも通った。教団の経営のためにワイン醸造をニューヨークのブルックリンでジョン・ハイド博士から学び、葡萄農園を中心とする農業で財政を支えた。 1875年、教団はカリフォルニアのサンタローザにワイナリーを開いた。しかし新生社の異端思想に対し、新聞が反教団キャンペーンを行ったために、ハリスが引退すると教団は事実上解散した。 1900年、長澤はワイナリーを教団から買い取り、品質向上に努力し、彼のファウンテングローブ・ワイナリーをカリフォルニア州10大ワイナリーのひとつにまで育て上げた。カリフォルニア大学デービス校の教授に醸造技術を学ぶなど研究を続け、高級ワインに育て上げた上に、フランスには特約店を設け、苗木を輸入するなど、商才にも長けていた〔羅府新報、October 23, 2014〕。彼のワインは米国内のワインコンクールで好成績を納め、イギリスに輸出された最初のカリフォルニアワインもナガサワ・ワインである。 生涯独身を貫き、83歳で死ぬと、ワイナリーは甥の伊地知共喜が継ぐ。その一部はパラダイスリッジ・ワイナリー として継承されている。莫大な土地財産は排日土地法等のため相続できず他人の手に渡った〔在サンフランシスコ日本国総領事館、2005年3月号〕。 2012年に新たな未公開日記などがカリフォルニアで見つかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長澤鼎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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