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長講堂(ちょうこうどう)は、京都府京都市下京区富小路通五条下ル本塩竈町にある西山浄土宗の寺院。後白河法皇ゆかりとされる本尊の木造阿弥陀三尊像は重要文化財である。 == 概要 == 後白河法皇が六条西洞院にあった御所・六条殿に寿永2年(1183年)頃に建立した持仏堂が元であったとされる〔文献上の初出は文治元年(1185年)である(『山槐記』)。〕。「長講堂」は本来は「法華長講弥陀三昧堂」と呼ばれ、法華経を講義し、阿弥陀仏を念じるための施設を指す一般名詞で同名の持仏堂が複数あったが、後白河法皇のものがもっとも著名で後世に伝わったために、長講堂と言えばこの施設を指すようになった。 文治4年(1188年)に火災で六条殿とともに焼失するが、後白河法皇は直ちに諸国に命じてその年のうちに再建された。建久2年(1192年)、法皇は42か国89か所に及ぶ自己の荘園を長講堂に寄進し、翌年の死に先立って長講堂ごと娘の覲子内親王に譲渡した。これらの所領群は後に「長講堂領」と呼ばれ、内親王の没後に紆余曲折の末に後深草天皇およびその子孫である持明院統が継承した。承元2年(1208年)、再び六条殿と長講堂が焼失すると、覲子内親王は一時土御門東洞院殿に移り、長講堂もその中に移転する。その後、元の場所に長講堂は戻されるが、土御門東洞院殿内の施設も引き続き別院として用いられた。その後、貞応元年(1222年)・文永10年(1273年)・建治3年(1277年)にも火災で焼失しているが、文永の火災後に後深草上皇の命により、土御門油小路に移転する。更に土御門東洞院殿の施設も光厳天皇以後、同殿が里内裏として固定化〔後の京都御所の原形となる。〕されたために応永8年(1401年)の火災に伴う再建の際に将軍足利義満の意向で土御門東洞院殿に内裏施設を再現するために長講堂に代替地を与えて立ち退かせた。 持明院統に継承された長講堂領は一時200か所にのぼり、応永年間にもなお112か所にのぼる荘園を保持していたが、応仁の乱後急速に不知行に至った。その後、天正16年(1588年)の豊臣秀吉による京都改造の際に現在地に移転した。現在の建物の多くが幕末の禁門の変で焼失後に再建されたものである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長講堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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