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長谷川伸 : ミニ英和和英辞書
長谷川伸[はせがわ しん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
谷川 : [たにがわ]
 【名詞】 1. mountain stream 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [のし]
 【名詞】 1. an iron 

長谷川伸 : ウィキペディア日本語版
長谷川伸[はせがわ しん]

長谷川 伸(はせがわ しん、1884年明治17年)3月15日 - 1963年昭和38年)6月11日)は日本の小説家劇作家である。本名は長谷川 伸二郎(はせがわ しんじろう)。使用した筆名には他にも山野 芋作(やまの いもさく)と長谷川 芋生(はせがわ いもお)があり、またそのほか春風楼、浜の里人、漫々亭、冷々亭、冷々亭主人などを号している(筆名が多いのは新聞記者時代の副業ゆえ名を秘したためである)。
股旅物」というジャンルを開発したのはこの長谷川であり、作中できられる「仁義」は実家が没落して若い頃に人夫ぐらしをしていた際に覚えたものをモデルにしたという。

== 略歴 ==
神奈川県横浜市(日ノ出町)の土木業の家に生れる。実母は横浜市泉区の出身だが、夫の暴力・放蕩が原因で、伸が3歳のとき家を出る。後年『瞼の母』の主題となる母との再会を果たした。
実家が没落したため小学校3年生で中退して船渠勤め等に従事。品川の遊郭で出前持ちをするなど住み込みの走り使いや水撒き人足として働く間に、港に落ちている新聞のルビを読んでは漢字を覚えた。大工や石屋の見習いなどを経たあと、体より頭を使う仕事をしたいと、好きだった芝居の評を新聞社に投稿し、それが縁で1903年(明治36年)にその新聞社の雑用係として入社。その後、英字新聞ジャパン・ガゼットに移る。1905年(明治38年)に千葉県国府台の騎砲兵第一連隊に入営する。そのときの中隊長が、のちの陸軍大臣となる畑俊六大尉だった。
除隊後、横浜毎朝新報社に入社。たまたま警察回りの記者が辞めたため、事件・事故の記事担当となり、他社の記者が書いた記事を集めては真似をして記事の書き方を学ぶ〔1960年8月1日NHK第2放送「私の自叙伝」にて本人談〕。都新聞の劇評家・伊原青々園に手紙を書いたところ、まったく見ず知らずであったが、伊原の口ききで1911年(明治44年)から都新聞社の演芸欄を担当する記者となる。長谷川はしばしば劇評を演劇雑誌などに投稿しており、伊原はその名前を覚えていたという。出社の際に履いていく袴がなく、知人に借りうけるため、出社日を1日伸ばしてもらう。入社後、まわりの記者の知識に圧倒され、毎日辞めたいと考えていたが、それは彼らが東京の地理や事情に詳しいだけであると気づき、東京の地図を懐に忍ばせながら記者生活を送った。同時に猛烈に本を読み始める〔1960年8月1日NHK第2放送「私の自叙伝」にて本人談〕。
1914年大正3年)前後に講談倶楽部や都新聞に山野芋作の筆名で小説を発表しはじめ、1922年(大正11年)以降は菊地寛の助言を受け、長谷川伸として作品を発表するようになる。1925年(大正14年)には大衆文芸を振興する二十一日会の結成に尽力。このころ周囲で亡くなる人が相次ぎ、自らの体調も思わしくなく、以前易者に言われた死期に近付いていることなどから、もうすぐ死ぬのではないかという思いにかられ、「どうせ死ぬなら、生まれて初めて自分が自分の体に奉公しよう。ダメなら大道で天ぷら屋でも始めればいい」と考えて、1926年(大正15年)には都新聞社を退社、以後作家活動に専念した。困難の次には困難でないことが起こるということを苦しい生い立ちから学び、前途が乏しいときほど力で出る、と長谷川は語っている〔1960年8月1日NHK第2放送「私の自叙伝」にて本人談〕。
五反田で芸者屋を営んでいた妻・まさえが亡くなり、自殺を考えるほどのスランプから小説が書けなくなり、脚本を書き始める。いくつかが上演されたのち、沢田正二郎が演じた『掏摸(すり)の家』の好評をきっかけに、劇作家として徐々に話題を集め〔1960年8月1日NHK第2放送「私の自叙伝」にて本人談〕、『沓掛時次郎』など、次々とヒット作を世に送り一時代を築く。1927年(昭和2年)、江戸川乱歩土師清二小酒井不木国枝史郎らと耽綺社を設立、また昭和8年には二十六日会を結成、大衆文芸や演劇の向上を目的とした活動においてもその名が知られるようになる。また主宰していた文学学校(勉強会)新鷹会の門下生には長谷川幸延村上元三山手樹一郎山岡荘八戸川幸夫平岩弓枝池波正太郎西村京太郎武田八洲満らが名を連ねた。
1934年(昭和8年)、たった一度だけ劇場の廊下で出会ったある夫婦の妻から手紙が届く。封を開ける前に「母親の居所がわかったのだ」という啓示があったという。手紙を読み終えると「熱海に行く」と妻・七保に言い残し、ひとり家を出る。誰もいない温泉に入り、湯から出ようと立ち上がったとき突然滂沱の涙があふれ、翌日まで部屋で呆然と過ごしたのち、帰京後、母と会うことを決心。牛込にある母親の再婚先を訪ね、再会を果たす。異父弟の三谷隆正(法学者)、三谷隆信(官僚)とも面談する〔1960年8月1日NHK第2放送「私の自叙伝」にて本人談〕。この再会を朝日新聞の記者がすっぱ抜き、新聞紙上を賑わせた。
1963年(昭和38年)、満79歳で死去。1966年(昭和41年)には長谷川伸賞が設立された。もっとも影響を受けた弟子のひとり、池波正太郎は師・長谷川伸との思い出を多数のエッセイに書いており、池波が作家を志したときには、長谷川から「(作家は)男のやる仕事としては、かなりやり甲斐のある仕事だよ。もし、この道へ入って、このことを疑うものは、成功を条件としているからなんで、好きな仕事をして成功しないものならば男一代の仕事ではないということだったら、世の中にどんな仕事があるだろうか。こういうことなんだね。ま、いっしょに勉強しましょうよ」と激励されている〔池波正太郎、エッセイ「長谷川伸」〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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