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長谷川 宣以(はせがわ のぶため、延享2年(1745年)〔『寛政重修諸家譜』の、公年50(幕府に届け出た年齢。実際の年齢は私年という)で寛政7年5月19日死去という記述からの逆算。瀧川政次郎は著書で「延享二年に平蔵は呱々の声をあげたと、私は断定する」(『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』P.14より引用)と記し、重松一義も著書で「延享二年生説が妥当と考えられよう」(『長谷川平蔵の生涯』P.61より引用)と記している。釣洋一によれば、諸書が生年を延享2年(1745年)とするのは数え年と満年齢の差を考慮していない誤りで、正しくは延享3年(1746年)であるという(『江戸刑事人名事典』P.208)。〕 - 寛政7年5月19日〔5月19日の死去は『寛政重修諸家譜』による。菩提寺の戒行寺に残る霊位簿の記録では5月10日である。死去の日付が異なる理由は、10日に死去した直後には喪を発せず、御役御免を願い出て許可を得た後、19日になって喪を発したためである。 -『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』P.126〕(1795年6月26日))は、江戸時代の旗本。火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた。幼名は銕三郎(てつさぶろう)、あるいは銕次郎(てつじろう)〔『寛政重修諸家譜』では銕三郎だが、息子宣義が幕府に提出した『先祖書』では銕次郎と記されている。 -『江戸刑事人名事典』P.208〕(銕は鉄の異体字)。家督相続後は父・長谷川宣雄と同じく平蔵(へいぞう)を通称とした。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として、日本の時代小説・時代劇ファンに知られている〔鬼平は池波正太郎が「あれは私が作ったんです」(『実録・鬼平犯科帳』より)と述べているように、当時そう呼ばれたわけではない上にあだ名でもない。〕。 == 生涯 == 延享2年(1745年)〔、400石の旗本である長谷川宣雄の長男として生まれる。母の名は不詳で、『寛政重修諸家譜』には某氏と記されている〔瀧川政次郎は、この某氏は長谷川家の上総にあった采地から奉公に出ていた女(農家からの奉公)であるとしている。 -『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』P.16 なお、釣洋一は瀧川の「人足寄場史」を引き、宣以の祖父・長谷川宣尹の知行所・戸村品左衛門の娘ではなかったかとしている。釣によれば、菩提寺・戒行寺の過去帳には宣以の死の4日前に「妙雲日雀」という女性が長谷川家で没したことが書かれており、この「妙雲日雀」なる女性は宣以母の戸村品左衛門の娘であろうとしている。〕。明和5年(1768年)12月5日、23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治に御目見えし、長谷川家の家督相続人となる。時期は不明であるが旗本の大橋与惣兵衛親英〔200俵取りの御船手であった。 -『江戸刑事人名事典』P.202〕の娘と結婚し、明和8年(1771年)に嫡男である宣義を授かっている。 青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたと記録にある〔『京兆府尹記事』に「本所の銕と仇名せられ、所謂通りものなりける」とある(『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』P.38から引用)。重松1994は「本所の銕」と19歳頃に出生地の築地から対岸の本所に移った時点でいわれていたことから、幼少の頃から不まじめな生活を送っており、地元のワルとして名前が通っていたのではないかとしている。〕。父の宣雄は火付盗賊改役を経て安永元年(1772年)10月に京都西町奉行の役に付き、宣以も妻子と共に京都に赴く。安永2年(1773年)6月22日、宣雄が京都で死去。宣以は父の部下の与力・同心たちに「まあ皆さんがんばってください。私は江戸で英傑といわれるようになってみせる」〔重松1994、史料としては『京兆府尹記事』にある。〕と豪語して江戸に戻り、同年9月8日に30歳で長谷川家の家督を継ぎ、小普請組支配長田備中守の配下となった。 父がためた金も使い果たし、遊郭へ通いつめて当時はやりの「大通」といわれた粋な服装をしていたと伝えられる宣以であるが、安永3年(1774年)、31歳で江戸城西の丸御書院番士(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、翌年には西の丸仮御進物番として田沼意次へ届けられたいわゆる賄賂の係となり、〔重松1994には、御書院番士や御進物番など堂々と押し出しの良い人間でなければ勤まらない役職であったことから、宣以は派手好みの男前で手八丁口八丁という人間だったろうとしている。〕天明4年(1784年)、39歳で西の丸御書院番御徒頭〔御進物番から御書院番御徒頭になるのは異例の抜擢である。足高600石を加増されている。重松1994〕、天明6年(1786年)、41歳で番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられ、順調に出世していった。火付盗賊改役に任ぜられたのは天明7年(1787年)9月9日、42歳の時である。 寛政の改革で人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などで功績を挙げた。しかし、この時上司である老中首座・松平定信に予算の増額を訴え出たが受け入れられず、やむなく宣以は幕府から預かった資金を銭相場に投じるという方法で資金を得る。辣腕とも言えなくは無いが、当時の道徳的には認められるようなものではなく(現代においては、役人が国家予算を相場投機で殖やすのは、道徳のみならず法的に認められるものではないが)、またこのような手法はかつての田沼意次を思い起こさせるようなものであり、このため意次を毛嫌いしていた定信とは折り合いが悪かった。定信は自伝『宇下人言』において敢えて名を呼ばず「長谷川某(なにがし)」とまで記し、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べたほどであった。また前述のように清廉潔白というわけでもなかったので『よしの冊子』(定信の元に集まってきた隠密情報を整理した文書)によると「長谷川平蔵のようなものを、なんで加役に仰せ付けるのか」と同僚の旗本たちは口々に不満を訴えたという。 寛政元年(1789年)4月、関八州を荒らしまわっていた大盗、神道(真刀・神稲)徳次郎一味を一網打尽にし、その勇名を天下に響き渡らせる。また、寛政3年5月3日(1791年6月4日)には、江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵(あおい)小僧を逮捕、斬首した。逮捕後わずか10日という異例の速さで処刑している。〔名和1994によれば、逮捕後わずか10日の処刑は江戸時代でも最速の記録であり、婦女暴行の被害者に対する配慮から行ったことであろうとしている。〕 非常に有能だが幕閣(特に前述の定信)や同僚からはあまり信頼されていなかったようで出世はままならなかったが、的確で人情味溢れる仕事振りに庶民からは「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれ、非常に人気があった。宣以も出世できないことを愚痴っていることもあったが「越中殿(定信)の信頼だけが心の支え」と勤務に励んでいたという〔山本博文『男の嫉妬 武士道の論理と心理』(ちくま新書)「第5章 嫉妬に沈められた長谷川/平蔵」によれば、平蔵の活躍に対する、上司や同僚の嫉妬が障害になって望みの町奉行にもなれなかった。「もう酒ばかりを呑んで死ぬであろう」と同僚たちに愚痴をこぼした記録も残っている。〕。 寛政7年(1795年)、8年間勤め上げた火付盗賊改役の御役御免を申し出て、認められた3ヵ月後に死去した。死の直前、11代将軍・家斉から懇ろな労いの言葉を受け、高貴薬「瓊玉膏」(けいぎょくこう)を下賜されている。東京都新宿区須賀町の戒行寺に供養碑がある。戒名は「海雲院殿光遠日耀居士」(かいうんいんでんこうえんにちようこじ)。長谷川家の家督は嫡子長谷川宣義が継いだ。 なお、長谷川宣以の住居跡には数十年後に江戸町奉行となる遠山景元が居を構えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長谷川宣以」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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