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長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち〔『日露戦争兵器・人物事典』原剛「長谷川戍吉」〕、1868年7月7日(慶応4年5月18日) - 1907年(明治40年)1月21日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争において騎兵挺進隊隊長を務めた、いわゆる長谷川挺進隊の指揮官である。戦後旧部下の不祥事が原因で自決した。最終階級は陸軍騎兵少佐。〔*>原剛は階級を中佐としている。名前について『日本騎兵八十年史』では「長谷川茂吉」、『陸軍騎兵少佐長谷川戌吉傅』、『斗南藩こぼれ草』では「長谷川戌吉」としている。〕 ==生涯== ===生誕から上京=== 父は会津藩藩士長谷川信吉である。信吉は禄高十三石四人扶持〔*>『斗南藩こぼれ草』では十四石四人扶持。〕の武具役所勤めであった。長谷川が誕生した際、すでに長兄の丑吉が白河の戦いで討死しており、長谷川が跡を継いだ。戦後に斗南藩三戸郡門前村に移住したが、1873年(明治6年)に 会津本郷に戻った。陶芸家の弟子となり、旧藩校日新館を再興した私立日新館(現会津高校)に進むが退校。単独で上京し山川浩家の家僕となる〔『陸軍騎兵少佐長谷川戌吉傅』〕。長谷川は旧藩主松平容大としばしば行を共にした〔『陸軍騎兵少佐長谷川戌吉傅 (続)』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長谷川戍吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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