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長谷川 毬子(はせがわ まりこ、1917年8月8日 - 2012年1月29日〔大橋義輝 『「サザエさん」のないしょ話』 p251 データハウス 2012年 〕)は漫画家の長谷川町子の姉、2代目長谷川町子美術館館長。元姉妹社社長。 == 人物 == 筑紫女学園卒。1934年父の死後、家族とともに福岡から東京へ移住。洋画家の藤島武二に弟子入り、挿絵画家になる。その後、菊池寛の小説の挿絵を担当する(その縁で菊池は自分が経営していた文藝春秋社に毬子の末妹の洋子を入社させる)。朝日新聞記者の東学(アズマ マナブ)と結婚するが、東は召集され1944年インパール作戦で戦死する(戦死が伝えられたのはその翌年)。わずか1週間の結婚生活であったが、毬子は以降生涯独身を貫き通した。 戦後、妹の長谷川町子が「夕刊フクニチ」に「サザエさん」を連載。新聞で有名出版社から連絡を受け一家は再び上京。福岡の家を売った資金で「姉妹社」を創業する。苦労の末、「サザエさん」の第1巻を出版し、三越本店の書籍コーナーに直接持ち込むが担当者から「取次店に(本を)入れて、小売にまく」と言われ、大手取次店だった日本出版配給(日配)に2万部持ち込み、全部引き取り代金も支払われたため、2万部を増刷した。しかしB5判の横綴じで店頭に並べにくいと返品され、日配に断られ全部長谷川が引き取ることになり、自宅は返品された第1巻に占拠された形になった。母の助言で第2巻をB6判で出すことになり(資金は某出版社から借りた)、第2巻を出版した。第2巻が売れたことからB5判の第1巻も売れるようになり、以後「サザエさん」はB6判で出版されることになった。 1985年長谷川美術館が開館。1992年に町子の死去とともに同美術館の館長に就任。館名を「長谷川町子美術館」と改称した。翌年、姉妹社を解散し、長谷川町子の作品の版権を同美術館に移管した。 実妹の洋子は、些細なすれ違い(60年近く居た長谷川家から独立したことが姉・毬子と町子の逆鱗に触れたという)から毬子と絶縁状態になったことを2008年に出版した本に書いているが、その後毬子が亡くなるまでに両人は遂に連絡を取り合うことは無かった。1992年に町子が死去した際にも毬子は部下に「洋子には知らせるな」と厳命したが、見かねた部下が毬子に内緒で知らせた。 2012年1月29日死去。享年96(満94歳没)。長谷川町子美術館では毬子を追悼する特別展が2012年12月から翌年2月まで開催された〔 長谷川町子美術館「展示のご案内」 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長谷川毬子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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