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長谷川 謹介(はせがわ きんすけ、安政2年8月10日(1855年9月20日) - 大正10年(1921年)8月27日)は、鉄道官僚、技術者。 == 経歴 == 長門国厚狭郡千崎村〔工学博士長谷川謹介伝 昭和12年7月 長谷川博士伝編纂委員会編 p.344。〕(現在の山口県山陽小野田市)出身。1874年(明治7年)に鉄道寮に出仕したが、1877年(明治10年)に鉄道寮が廃止されると、工部省技手に転じた。1892年(明治25年)、官を辞して日本鉄道の技師となり、1897年(明治30年)には岩越鉄道の嘱託技師も兼ねた。 1899年(明治32年)、台湾総督府民政長官後藤新平の招きで臨時台湾鉄道敷設部技師長に任命され〔『官報』第4723号、明治32年4月4日。〕、台湾総督府鉄道部技師長〔『官報』第4908号、明治32年11月9日。〕、台湾総督府鉄道部長を歴任した。1908年(明治41年)、自らが手がけた台湾縦貫線の完成とともに辞任し、鉄道院に転じた。 東部鉄道管理局長、西部鉄道管理局長〔『官報』第8303号、明治44年2月28日。〕などを務めた後、鉄道院理事〔『官報』第868号、大正4年6月24日。〕、鉄道院技監〔『官報』第1308号、大正5年12月11日〕を歴任し、1918年には鉄道院副総裁に就任した。 「台湾鉄道の父」などと呼ばれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長谷川謹介」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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