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長 連龍(ちょう つらたつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。織田家の家臣。後に前田家の家臣。 畠山家の滅亡と同時に長家も一時的に滅亡したが、連龍は織田信長に仕えて再興を果たす。信長没後は前田利家に仕え、利家を軍政両面で支えた。生涯41回の合戦に参加して勇名を馳せた〔。 == 生涯 == === 能登畠山家の時代 === 天文15年(1546年)8月15日、能登畠山氏の家臣・長続連の三男〔〔川口素生『戦国軍師人名事典』P68では次男とされているが、杉山伯耆守直光の養子となった次兄がいる。〕として生まれる。幼名は萬松。初名を好連。 臨済宗の門に入り能登国熊木定蓮寺の僧となり、宗顒〔を称して、孝恩寺の住職になった。以後、僧形であっても孝恩寺を通称として戦場に出た。 永禄12年(1569年)11月、温井景隆と三宅長盛の帰参に畠山義隆〔または畠山義慶の誤記とも言う。〕が八代俊盛の三千貫の土地をあてがわせたのを不満にもって、八代親子が3千名の兵で乱を起こした際、孝恩寺・温井・三宅・松波常重は4千名を持って、鶏塚の合戦を戦って八代親子を敗死させた。 天正5年(1577年)5月、上杉謙信の侵攻を受けた際、7月18日、平子和泉、轡田肥後・唐人式部・板倉伝右衛門が穴水城救援に向かうと、孝恩寺は法衣をきて水軍を率いて迎撃し、乙ヶ崎合戦で大勝して首級70を取った。閏7月、謙信が能登に軍を進めたために穴水城の包囲を解いた長続連は、自身が事実上の城主たる畠山氏の居城・七尾城に籠城して上杉軍に取り囲まれるが、23日、幼い畠山春王丸が病死して、守兵の士気が下がったので、長綱連は弟孝恩寺を密かに海路より織田信長のもとへ援軍要請に赴かせた。ところが26日にも義春の叔父二本松義有も病死して畠山氏は宗室は絶えた。長綱連は一揆勢を扇動して上杉の背後を付かせようとしたが失敗し、七尾城は9月にも陥落は避けがたい状況になった。謙信は、上条政繁・長尾与次郎・島津淡路を使者として遊佐続光を内応させた。遊佐は温井・三宅兄弟と謀って、9月15日、続連、綱連、則直、連常、連盛ら長一族14人を尽く謀殺した。これによって(綱連の末子・菊末丸を除き)孝恩寺は一族の中で生き残ることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長連龍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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