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長野 士郎(ながの しろう、1917年10月2日 - 2006年12月5日)は、日本の官僚、政治家。 自治事務次官(1971年~1972年)、公選8-13代岡山県知事(6期)、全国知事会会長(1995年~1996年)を歴任した。正三位勲一等旭日大綬章。 == 来歴 == 1917年、岡山県吉備郡服部村(現・岡山県総社市南溝手〔広報そうじゃ(2007年1月号) (総社市企画課)〕)に医師であった父・健次郎と母・菊野の四男として生まれる。第六高等学校、東京帝国大学法学部を卒業。1941年、高等文官試験行政科に合格する。 1942年、内務省に入省し、地方局行政課に配属される。1944年、海軍司政官に志願しスラウェシ島(セレベス島)に赴任する。内務省解体後は総理大臣官房自治課などで勤務し、地方自治法改正に尽力した。1949年、地方自治庁連絡行政部行政課長に就任し、町村合併促進法を作成するなど昭和の大合併に深く関与した。地方自治法を解説した『逐条地方自治法』を執筆し、この頃から「地方自治の神様」との異名をとった。 奄美群島復帰に際しては、「長野レポート」作成や奄美群島復興特別措置法成立に関与した。1955年、自治庁長官官房調査課長となり、赤字団体の財政再建や1956年の地方自治法改正に携わった。福岡県総務部長、自治庁長官官房総務課長等を経て1963年には自治省選挙局長に就任した。選挙人名簿制度創設に取り組んだが、この時の小選挙区制度導入には失敗した。1966年、自治省行政局長に就任。1969年からは自治省財政局長として地方医科大学の創設に尽力した。1971年、自治事務次官に就任し、翌1972年に自治省を辞職した〔長野士郎(元岡山県知事、元自治事務次官) (政策研究大学院大学 C.O.E.オーラル・政策研究プロジェクト)〕。 自治省辞職後は、社公民路線を提唱した江田三郎に推され、岡山県知事選挙に日本社会党・公明党・民社党・日本共産党の革新統一候補として出馬し、自由民主党推薦の現職加藤武徳を破り初当選を果たした。知事就任後は自治官僚としての経験を活かし、「人間尊重・福祉優先」をキャッチフレーズに、地方振興局(現在の県民局)の設置や吉備高原都市構想を打ち出した。こうした県政の推進は先見性に富むものとして県内外から高い評価を受けた。 2期目以降は社会党・共産党と決別したものの、自民党を与党に引き入れた支持基盤に支えられ、6期24年の長きにわたり知事職を務めた。特に瀬戸大橋の建設推進や2000m滑走路を備えた岡山空港の移転開港等の大型開発事業は、岡山県内の交通アクセスを飛躍的に向上させることとなった。1993年には、岡山市にあった岡山県立短期大学を4年制大学に移行させるかたちで岡山県立大学を開学し、故郷の総社市に移転させた。6期目終盤の1995年から1996年には全国知事会会長を務めた。 その一方で、在任中の相次ぐ強引な大規模公共事業の展開により、県財政に約8000億円に上る累積債務という負の遺産を残した事を批判する声もある。この点から、「地方自治の神様」とも称される長野は、箱物行政に伴う累積赤字および財政破綻寸前状態をもたらした最大の元凶とも言われる存在でもあり、岡山県内でも長野に対する評価は真っ二つに分かれる。特に自らが起こした公共事業の反対派や慎重派には容赦する事が無く、任期終盤の事業においては地方自治を熟知するがゆえの強引な手法で反対派や慎重派を潰し切り崩し強硬姿勢を貫き、事業を潰した者や自治体に対しては、時代の変化との齟齬や認識の甘さによる自らの態度の是非は全く顧みず、誰はばかることなく非難と攻撃の対象にした。(後述)そのため県内の事業反対派や慎重派、さらには累積赤字の後始末に追われた者からは「地方自治の悪魔」とまで呼ばれた。 1996年に岡山県知事を退き、1999年には長年にわたる地方行政における功績をたたえられ、勲一等旭日大綬章を受章した。2006年12月5日、入院先の岡山市内の病院にて膵臓癌のため死去した〔長野士郎氏が死去 岡山県知事6期 (共同通信 47NEWS)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長野士郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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