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山ヶ野金山(やまがのきんざん)は、鹿児島県霧島市とさつま町の境界付近にあった金および銀の鉱山である。1640年に発見され一時期は佐渡金山をしのぐ日本最大の産金量を誇ったが1965年に閉山した。永野金山あるいは長野金山とも呼ばれる。総産金量は2001年の時点で日本国内第7位の28.4トンである。 ==歴史== ===金山開発までの経緯=== 山ヶ野付近の山中に鎌倉時代のものと推定される坑道跡があり、古くから採鉱されていたと考えられているが当時の記録は残されていない。江戸時代初期、宮之城郷佐志村(現在のさつま町佐志)の川で金鉱石が発見されたことから当時の薩摩藩藩主島津光久が金鉱脈の探索を指示した。光久の家臣であり宮之城領主であった島津久通は、石見銀山に務めた経歴のある内山与右衛門を呼び寄せて探索にあたらせ、2-3年後に金鉱脈が発見された。 記録によれば発見の経緯は以下の通りとされる。久通は紫尾神社で得た神託を頼りに自ら探索を開始し、薩摩国伊佐郡長野郷長野村(現在のさつま町永野)の宍焼口と呼ばれる地区の河原で金鉱石を発見し、さらに上流へと進み山中で野宿した。この時に久通が「赤牛が寝たような形の岩が金である」という夢のお告げを得て翌朝の1640年5月12日(寛永17年3月22日)、夢と同じような形の岩を発見し金鉱脈にたどり着いたという。この経緯にちなみ野宿した場所は夢想谷と名付けられた。しかしながら当時の状況から実際の金鉱脈発見者は与右衛門であり、久通に手柄を譲ったという見方もある。 1641年(寛永18年)、薩摩藩は長野村の金鉱脈発見を江戸幕府に報告するとともに、金山を幕府に差し出すことを提案した。但し、この提案は形式的なものであり事実上は単なる採掘許可の申請であった。翌1642年(寛永19年1月)、幕府は採掘を許可し薩摩藩に経営を任せると回答している。後になって金鉱脈の位置は実際には長野村ではなく大隅国横川郷上之村山ヶ野(現在の霧島市横川町山ヶ野)であることがわかったため山ヶ野金山と呼ばれるようになった。但し、このことが明らかになったのは幕府に長野村と報告した後であり、薩摩藩は幕府に疑念を抱かせることを恐れて公式には長野金山の呼称を使用している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山ヶ野金山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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