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長野電鉄10系電車 : ミニ英和和英辞書
長野電鉄10系電車[ながのでんてつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [の]
 【名詞】 1. field 
電鉄 : [でんてつ]
 【名詞】 1. electric railway 
: [てつ]
 【名詞】 1. iron 
: [けい]
  1. (n,n-suf) (1) system 2. lineage 3. group 4. (2) type of person 5. (3) environment 6. (4) medical department (suf) 
電車 : [でんしゃ]
 【名詞】 1. electric train 
: [くるま]
 【名詞】 1. car 2. vehicle 3. wheel 

長野電鉄10系電車 ( リダイレクト:長野電鉄0系・10系電車#10系 ) : ウィキペディア日本語版
長野電鉄0系・10系電車[ながのでんてつ0けいでんしゃ]
長野電鉄0系電車(ながのでんてつ0けいでんしゃ)、および10系電車(10けいでんしゃ)は、長野電鉄に在籍した一般列車用電車である。
企画当時は逼迫していた朝ラッシュ時間帯の通勤通学輸送を意識して製造された経緯からOfficemen & Students Carの頭文字を取り、OSカーと呼ばれている。
本項では、1966年(昭和41年)に製造された0系1980年(昭和55年)に長野線長野 - 善光寺下間が地下化された際に製造された10系の両系列について記述する。
== 0系 ==


0系は、単線区間が介在することによって車両編成や運転本数に制限のあるラッシュ輸送に対応する目的で、20m級車体と片側4箇所の乗降扉を採用した車両として1966年に2両編成2本の計4両が日本車輌製造で製造された。
系列名には、木造旧型車の淘汰が進んだことで空き番となっていた100未満の数字が用いられ、制御電動車がモハ0形、制御車がクハ50形とされた〔小林宇一郎「新車インタビュー 信濃路のイキな通勤型新車 長野電鉄 OSカー『鉄道ファン』1966年4月号(NO.58)、鉄道友の会、1966年4月1日、 35頁。〕。
日本で初めてFRPを車両正面の全面に採用した車両〔1962年から製造されている京王3000系電車は、前面上半部のみがFRP製であった。〕であり、地方私鉄として積極的なラッシュ対策を施したことが合わせて評価され、1967年(昭和42年)度鉄道友の会ローレル賞を受賞した。
車体は、長さが19,500mm(連結器間20,000mm)、幅が2,740mm。客用扉は、1,300mmの両開扉を片側につき4か所備えるが、運転台直後にも側窓と座席を配置している。これは運転室直後の換気を良くすることをねらったものであり、他社では相模鉄道旧6000系近畿日本鉄道南海電気鉄道の通勤車などにもみられ、側面の窓配置は相鉄旧6000系に類似している。座席はロングシートを採用し、定員は160名。うち座席定員は54名であり、ドア脇いっぱいまで座席を配置することで通勤通学利用客以外への着席サービス向上も図っている。
赤2号クリーム4号による塗り分けは本系列にあわせてデザインされ、在来車にもおよんでいく。FRP製の前面は、踏切破損の防止のため前照灯尾灯方向幕を上部にまとめている。方向幕は種別表示と行き先表示を上下二段で表示する。ここには当時としては珍しい「各駅停車」表示もされたが、これは同社の1100形の登場時、特急と勘違いする旅客が存在した事例を受けて用意されたものである。行先には分割運転を見越して「湯田中・木島」の表示を第一編成登場時から備えていたたほか、側面にも電動で操作できる行先・種別幕を装備する。これは当時まだ他に国鉄481系電車くらいしか類例のない先進的な設備であった。
台車は、枕バネオイルダンパ併用のインダイレクトマウント式コイルばね、軸箱支持はペデスタル式であり、密封ころ軸受けを採用した。台車形式はNA-18形およびNA-18A形(モハ0)、NA-18T形およびNA-18AT形(クハ50、いずれも日本車輌製造における形式)であり、前者が車輪径910mmであるのに対し、後者は車輪径860mmであった。電動車(モハ)の動輪径が大きいのは、当時狭軌最大級であった135kWの主電動機を装架するためである。
朝ラッシュ時には2編成を併結した4両編成での運用を行うため、先頭部には回り子式密着連結器を装備していたが、2500系導入後は密着式自動連結器に交換された〔『鉄道ピクトリアル』1984年4月臨時増刊号(NO.431)「甲信越・東海地方の私鉄特集」〕。4両編成運用自体についても2500系導入後は同系に置き換えられている。
20m4扉構造が採用された背景として、長野電鉄沿線には各種の学校が立地し、長野側都心エリアだけでなく途中駅での乗降が錯綜することがあった。観光輸送も考慮した座席数の多い2扉車では、19m級車体を備えるモハ1100形・クハ1150形の3両編成をもってしても乗降時間の延びによる遅延が多発し、特に冬季の乗降遅延は緊急の改善が必要とされたためである。さらに、2両編成で在来車3両編成の収容力を持たせる事で、全体の車両数削減を狙った〔小林宇一郎「長野電鉄の輸送改善と車両の活用」『鉄道ジャーナル』1978年11月号 (No.141)〕。大型4扉車であるため、冬季車内保温のための中央2扉の締め切り装置と、一部ホーム延長の短い駅でのドアカットに対応するための最後部扉締め切り装置を備えている〔。
主目的の通勤通学対応もさることながら、山の内線の急勾配区間の走行を配慮した大出力主電動機を採用していたことから、長野電鉄全線で幅広く運用された。特に、朝ラッシュ時間帯は2本を連結した4両編成とし、線内最大輸送力列車として運行された。構想として数年のうちに5編成を導入し、乗務員を含めた運用効率の向上を図る事としていたが、以後の増備は利用客の減少に伴い中止された。
後述の10系導入後は「OS1」とも呼ばれた〔NEW MODELS 電車(私鉄)編 「長野電鉄0系 OSカー1」『N gauge NEW MODELS 2004 summer』(NEKO MOOK 691)、ネコ・パブリッシング、2004年8月21日、 99頁。〕。
最終的には主に長野 - 湯田中須坂信州中野)間で運用されたが、ワンマン運転対応改造が難しく、発電ブレーキを装備していないなどの運転上の制約もあり、長野オリンピックを目前に控えた1997年(平成9年)、3500系に置き換えられる形で廃車された。
廃車後、しばらくはモハ1 - クハ51の編成が静態保存を前提として須坂駅構内に留置されていたが、2002年に解体処分されたため現存しない〔。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「長野電鉄0系・10系電車」の詳細全文を読む




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