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長鬐面(チャンギミョン、ハングル:)は大韓民国慶尚北道浦項市南区の面の一つ。 浦項市の最南端に位置し、南は慶州市甘浦邑と隣接していて、海岸と陸地とを結ぶ交通の要衝である。 かつて倭寇の侵入が多かった土地であり、代表的な文化遺跡として長鬐邑城、磊城山城、長鬐牟浦ジュル、斥和碑などの他、李氏朝鮮時代の学者、宋時烈、丁若鏞などから影響を受けた郷校、書院、史跡碑および忠孝館などが点在している。文化財として長鬐邑城は韓国で唯一城門が3つある邑城として史跡第386号に指定されている。 景勝地である長鬐面の14.5kmの海岸線には12の漁村と21の農村の集落があって、海産物はホヤやワカメが豊富で、農産物はトックリイチゴが名物である。〔 ==歴史== 三国時代は新羅の只沓県の一部だった。 同県は景徳王16年(757年)鬐立県に改名し、後に義昌郡の一部となった。 高麗時代の太祖13年(930年)、鬐立県は長鬐県に改名して顕宗9年(1018年)には慶州府に内属した。 〔 李氏朝鮮時代、長鬐県には従六品に相当する県監が置かれ、慶州府の領県だった。 1765年に長鬐県は邑内面、西面、北面の3面を管轄(1789年には県内面35坊、西面15坊、北面36坊の3面86坊。1832年には県内面13里、西面10里、北面14里の3面37里)。 1895年に長鬐県は長鬐郡に改編されて東莱府に属し、3面49里を管轄。 1896年の十三道制実施で長鬐郡は慶尚北道の管轄となった。 1906年、慶州郡の北道面(後の陽北面)と南道面(後の陽南面)が長鬐郡に編入され、長鬐郡の北面が内北面と外北面に分けられて、あわせて6面となる。 現在の長鬐面の領域は当時の県内面と西面にあたる。〔 日本統治時代に入った1912年には長鬐郡は6面135里(うち県内面:30、内南面:33、陽南面:15、西面:26、内北面17、外北面:14)を管轄し、郡庁所在地は県内面東部里にあった。 1914年、県内面・内北面・外北面・西面の4面が滄州面(内北面と外北面を16洞)・長鬐面(県内面を12洞)・峯山面(西面を11洞) の3面に廃統合されて迎日郡の管轄となり、内南面と陽南面は慶州郡の陽北面と陽南面となった。 1934年、長鬐面・峯山面が合併して只杏面()となり、23里を管轄、面事務所は邑内里に位置した。〔 大韓民国として独立後の1991年12月1日、只杏面は現在の面名である長鬐面に改称した。〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長ギ面」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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