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廣松 渉(ひろまつ わたる、男性、1933年8月11日 - 1994年5月22日)は、日本の哲学者、東京大学名誉教授。 筆名は門松暁鐘など。妻の妹は加藤尚武夫人。 == 略歴 == 福岡県柳川市蒲池出身。出生地は山口県厚狭郡山陽町(現在の山陽小野田市)。1946年、中学1年生の時に日本青年共産同盟に加盟。 1949年4月、高校進学と同時に日本共産党に入党する。1950年の50年分裂では国際派に所属し、 1951年に国際派の「全国統一会議」が解散した後は、党に戻らず全日本学生自治会総連合(全学連)などで活動。 福岡県立伝習館高等学校中退後、大検に合格して大学進学資格を得て、東京学芸大学に入学するも、中退して東京大学文学部哲学科に再入学をする。当初はエルンスト・マッハに対する関心が強かったが、指導教官の勧めもあってカント研究に専念することになる。その後、東京大学大学院に進学。1965年に博士後期課程を単位取得退学している。 1955年7月、日共第六回全国協議会(六全協)を受けて復党するも、翌年に出版した共著書『日本の学生運動』が問題とされて離党した。1958年12月、共産党と敵対する共産主義者同盟(ブント)が結成されると以降、理論面において長く支援し続けた。1967年創刊の『情況』は、廣松が当時の金で100万円援助して、創刊されたものだという。創設者の古賀暹によれば、いったん断ったが、喫茶店で上半身の服を脱ぎ、さらしから100万円を出し、「男が一度出した金を引っ込めることはできない」と言われたことから、創刊を決意したと言う(荒岱介『破天荒な人々 叛乱世代の証言』(彩流社2005)古賀暹インタビュー)。 ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊しつつあった1990年にはフォーラム90sの発足にも関わった。 1965年から1970年まで名古屋大学でドイツ語、哲学などを教えるが、学生運動を支持して辞職。1973年に大森荘蔵の要請で東京大学教養学部の非常勤講師となり、1976年に助教授、1982年に教授に就任した。1994年3月に東大を定年退職。河合文化教育研究所の専任研究員となったが、既に病床にあったため一度も出勤しなかった。1994年5月22日、肺癌にて死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「廣松渉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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