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門 致中(もん ちちゅう)は中華民国の軍人。国民軍の軍人で、後に南京国民政府(汪兆銘政権)に加入した。字は靖原。 == 事跡 == 1914年(民国3年)11月、保定陸軍軍官学校第1期歩科を卒業。1918年(民国7年)、馮玉祥率いる第16混成旅で参謀に任ぜられる。1922年(民国11年)、第11師参謀長に昇進し、陸軍少校銜を授与された。さらに程なくして陸軍中校銜も受けている。1924年(民国13年)2月、第25混成旅歩兵団団長に任ぜられ、翌月、陸軍上校銜を授与された。 国民軍成立後の1925年(民国14年)1月、綏遠全区警務処処長兼綏遠警察庁庁長に任ぜられる。さらに国民軍第1軍警備第2旅旅長にも任ぜられた。7月、陸軍少将銜を授与される。9月、馮玉祥の五原誓師を経て、門致中は国民聯軍副参謀長兼第7路総司令兼北路前敵総指揮に任命された。1927年(民国16年)、第7軍軍長となり、さらに第2集団軍訓練副監に任ぜられている。 国民政府では、1928年(民国17年)3月に、国民政府軍事委員会委員を兼任している。10月、甘粛省政府委員となり、翌月、初代寧夏省政府主席に任ぜられた。翌年1月、国民政府首都建設委員会委員も兼ねている。1930年(民国19年)、西北軍第17軍軍長に任ぜられた。 翌年6月、寧夏省政府主席を罷免され、北平政務委員会委員となる。その後、暫編第1混成旅旅長に任ぜられた。1932年(民国21年)、河北剿匪総指揮となる。翌年5月、軍事委員会北平委員会委員となる。1935年(民国24年)4月、陸軍中将に任ぜられ、12月、冀察政務委員会建設委員会委員長となった。 1940年(民国29年)、汪兆銘が南京国民政府(汪兆銘政権)を樹立すると、門致中もこれに参加し、軍事委員会委員に任ぜられた。1945年(民国33年)3月、華北政務委員会綏靖総署督弁に任ぜられている〔劉寿林ほか編『民国職官年表』による。なお、徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は、1944年以降の門致中の地位について、以下のように記述している。1944年、華北政務委員会治安総署督弁兼華北治安軍総司令に就任。1945年3月、華北政務委員会常務委員兼綏靖総団督弁に就任。しかし劉『民国職官年表』には、これらの人事異動について記載が無い。同書は、1943年11月まで治安総署督弁には斉燮元がついていた、としている。そして1943年11月に治安総署が綏靖総署に改組されると、督弁には杜錫鈞がついた、と記載している。〕。 汪兆銘政権崩壊後は、蒋介石の国民政府に復帰し、華北先遣軍第9路総司令に任ぜられた。1946年(民国35年)からは香港に移住している。 門致中の詳細な没年は不明だが、1960年代に香港の九龍で病没している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「門致中」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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