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沈 葆楨(しん ほてい、1820年 - 1879年、字は翰宇・幼丹)は、清末の官僚。妻の林普晴は林則徐の娘。沈瑋慶、沈瑩慶、沈瑜慶、沈璘慶、沈璿慶、沈瑤慶、沈琬慶の父。変法運動の支持者の1人林旭は孫娘沈鵲応の夫で、中華民国の外交官沈覲鼎は曾孫に当たる。福建省閩侯県出身。 清末の洋務運動で中心的な役割を果たし、総理船政大臣及び南洋通商大臣を歴任した。台湾出兵(牡丹社事件)の際には欽差大臣として台湾に赴任し軍務を監督した。また任期内に台南市の修復を行なうと共に、漢人の渡台禁令を解除している。 == 生涯 == === 出身から船政大臣まで === 道光27年(1847年)に進士に及第し翰林院編修に任命、咸豊4年(1854年)には御史へ、咸豊6年(1856年)には江西省へ派遣され九江知府に任じられ、曽国藩と共に太平天国の平定作戦に従事している。同治元年(1861年)に江西巡撫に就任し、同治3年(1864年)に太平天国の天京を陥落させた際には、幼天王洪天貴福・干王洪仁玕・昭王黄文英を江西に追い捕虜とし、この軍功により軽車都尉に昇進した(天京攻防戦)。 同治5年(1866年)、左宗棠が福建省に馬尾船廠を建設した。だが建設の途中で陝甘総督として異動することになった左宗棠は、沈葆楨を後継者として推薦した。そのため、翌同治6年(1867年)に船政総理大臣に任命され、中国の海事事業の近代化と洋務運動に対し大きな貢献を行った。沈葆楨は、馬尾船廠で近代的な軍艦を建造して福建水師(一部は北洋水師、南洋水師にも提供された)に配備しただけでなく、人材育成にも尽力し、中国最初の海軍学校である福建船政学堂を建学、後に北洋水師や洋務運動の中核を担う人材を数多く輩出している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「沈葆テイ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shen Baozhen 」があります。 スポンサード リンク
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