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間部詮之(まなべあきゆき)は、江戸時代中期の旗本。間部詮房の実弟。徳川家宣・家継に仕え、本家の鯖江藩主の間部家とは別に分家である本所間部家〔分家の名称は本所松井町に屋敷があったことにちなむ。〕を興した。本所間部家は2150石を知行する旗本として明治維新まで存続。 ==生涯== 延宝2年(1674年)、西田清貞の三男として誕生。元禄2年(1689年)1月15日、桜田館にて甲府藩主・徳川綱豊(後の徳川家宣)とお目見えし、同年1月18日から綱豊の小姓を務める。宝永元年(1704年)、家宣の江戸城西の丸入りにともない西丸小姓に就任。その後、立て続けに加増を受け、正徳5年(1708年)には2150石を知行する旗本になった。詮之が急激な出世を遂げられたのは、この頃に幕政を主導した兄の詮房の力によるものと考えられる。 正徳2年(1712年)に家宣が亡くなった後は徳川家継の小姓を勤めた。正徳6年(1716年)、家継が死去したことで職を解かれ寄合に列する。享保9年(1724年)、作事奉行として要職に復帰し、享保13年(1728年)に辞職するまで務めた。 享保15年(1730年)2月13日、死去。享年57歳。詮之には実子がいなかっため、遺領と家督は養子の詮綽が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「間部詮之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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