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平 信兼(たいら の のぶかね、生没年不詳)は平安時代末期の武将。桓武平氏大掾氏の一族で、父は平盛兼。子に源頼朝挙兵で最初の標的とされた山木兼隆(山木判官代)のほか、兼衡、信衡、兼時がある。大掾信兼・関信兼とも呼ばれる。官職は出羽守または和泉守。 ==生涯== 伊勢国鈴鹿郡関を本拠とする。保元元年(1156年)の保元の乱に際しては、惣領(宗家)の平清盛とともに後白河天皇方として参戦。その後、清盛の立身と平氏政権の樹立の過程でその配下に組み込まれる。検非違使や河内国、和泉国、出羽国の国司を歴任し、位階は正五位下に至った。 治承・寿永の乱では養和元年(1181年)、伊勢・志摩に乱入した熊野山の僧兵と二見浦で戦い、これを撃退した(『吾妻鏡』同年正月21日条)。寿永2年(1183年)7月の平家の都落ちには同行せず、伊勢国に潜伏する。元暦元年(1184年)8月に、本拠の伊勢・伊賀にて平家継らとともに一族を糾合して反源氏の兵を挙げ、源氏方の守護・大内惟義以下の勢力に打撃を与えた。その後信兼は行方をくらますが、子息の兼衡・信衡・兼時らが信兼捜索の命を受けた源義経の邸に呼び出され、斬殺、あるいは自害に追い込まれた(『山槐記』8月10日条)。その2日後に義経は信兼討伐のため伊勢に出撃する。その後の合戦について貴族の日記には記録がないが、『源平盛衰記』によると、伊勢国滝野において、城に立て籠もる100騎程の信兼軍が激戦の末、討ち取られたという(三日平氏の乱)。 信兼の京都の家地は「楊桃南朱雀西」にあり、平家没官領として京都守護の役割を与えられた義経の沙汰とされたが、義経没落後は一条能保・中原親能の支配下となった。 『吾妻鏡』では、伊勢平氏平維衡の末裔で、後代における関氏の祖であると伝わるが、真偽の程は不詳である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平信兼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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