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関 勝治(せき かつじ、1939年5月 -)は千葉県市川市出身の日本の柔道家。現役時代は中量級の選手。組み手は左組み。得意技は体落〔「新装版 柔道 体型別 技の大百科 第1巻」 ベースボールマガジン社、138頁-139頁 ISBN 978-4-583-10318-1〕。身長171cm。体重76kg〔 朝日新聞 1960年4月23日 夕刊5面〕。 == 人物== それまでは陸上競技やバスケットボールなどに取り組んでいたが、中学3年の時に加藤道場に入門して柔道を始めた。千葉商大付属第一高校3年の時にはすでに20歳になっていたが、高校生として初となる全日本選手権出場を果たした〔。大会では予選リーグ1勝1敗の成績で翌日の決勝トーナメントには進めなかった〔この年の全日本選手権では、指定選手16名と全国10地区から選出された32名の計48名による出場者が3名1組によるリーグ戦を初日に行い、各組の勝者16名が翌日の決勝トーナメントで優勝を争う形式で大会が開催された〕〔 朝日新聞 1960年5月1日 12面〕。この際に、フットワークはいいが、体落一辺倒のマンボ的柔道はあまり感心できないとも評された〔 読売新聞 1960年5月1日 6面〕。1961年には明治大学政治経済学部に進学すると、師範の姿節雄や曽根康治の指導の下で鍛えられて全日本学生柔道優勝大会では4連覇達成に貢献した〔。1964年の東京オリンピック中量級の日本代表最終候補に岡野功、佐藤治、遠刕信一とともに残るも、結果として岡野功が選出されたためにオリンピック代表にはなれなかった〔「戦後大学柔道の軌跡 VOL.6」近代柔道 ベースボールマガジン社、1990年11月号 84頁-87頁〕。 卒業後JRA所属となると、1972年の体重別中量級では福岡県警の園田勇に判定で敗れたものの2位になった。また、全日本選手権には計10回の出場を果たした。36歳の時に引退すると、1976年のモントリオールオリンピックには全日本チームの専任コーチとして参加して、大学の後輩である上村春樹が無差別で金メダルを獲得するのを見届けた。その後はJRAの柔道部監督となり、大学の後輩となる小川直也などの指導を経て、参与職に就いた〔。現在は千葉県柔道連盟副会長、全日本実業柔道連盟監事、明治大学柔道部OB会である「明柔会」会長を務めている〔上村会長続投を柔道界重鎮が後押し 東京スポーツ 2013年5月1日〕。 女子柔道強化選手による暴力告発問題や助成金の不正受給・流用疑惑に揺れる全柔連会長の上村春樹に関しては、「旭化成ホームプロダクツの副社長まで務めた一般企業においても認められた人物なので、原点に戻って会長を続けて欲しい」、また、次期会長候補である東海大学副学長の山下泰裕の会長就任は「時期尚早」とのコメントを発した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関勝治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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