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関口 伊織(せきぐち いおり、男性、1971年10月26日 - )は、埼玉県熊谷市出身の元プロ野球選手(投手)。より東北楽天ゴールデンイーグルスのスコアラー。 == 来歴・人物 == 熊谷市で鉄工所の経営者の長男として生まれる〔毎日新聞、1995年11月23日付朝刊、埼玉地方面〕。富士見中学ではエースとして県大会で3位になり、誘いを受けて大宮工業に進学した〔。3年の夏の埼玉大会ではベスト16で敗れたが、速球を評価され巨人や西武から獲得の打診もあったという〔。しかし、高校野球部の監督の勧めもあって東洋大学へ進学した。野球部では1学年下で1年春のリーグ戦でMVPを獲得した銭場一浩の存在などもあってすぐに起用は増えなかったが、3年秋にはリーグ戦で完封勝利を挙げている〔毎日新聞、1992年9月10日付朝刊、P.20〕。4年春には先発の柱となり〔朝日新聞、1993年4月6日付朝刊、P.21〕、大学では通算9勝8敗の成績を残した。大学卒業後、日本通運に入社。同期には大塚晶文がいた。 入社1年目のは日本選手権で決勝戦の先発を任され、優勝に貢献〔毎日新聞、1994年10月25日付朝刊、埼玉地方面〕。翌は黒川紀章とともに投手陣の中心となり〔毎日新聞、1995年5月15日付朝刊、埼玉地方面〕、3月の東京スポニチ大会では準優勝に貢献して敢闘賞を受賞している〔毎日新聞、1995年3月17日付朝刊、P.25〕。同年の都市対抗では川鉄千葉の補強選手となり、エースの須合哲哉とともにベスト4進出を支えた〔毎日新聞、1995年8月1日付朝刊、千葉地方面〕。また、捕手の藤井省二から配球について多くを学んだという〔毎日新聞、1995年9月4日付朝刊、埼玉地方面〕。同年のドラフトでは横浜ベイスターズを逆指名し〔、2位で入団。当時のNPBの規定上限である契約金1億円と出来高払い金5,000万円、年俸1,200万円(いずれも推定)で入団契約を結んでいる〔。 1年目の4月10日には早くも一軍で登板し、シーズン後半は先発として起用され5勝を挙げた。また、11月の日米野球では予定されていた斎藤隆に代わり第7戦のメンバーに選ばれた〔毎日新聞、1996年10月30日付朝刊、P.25〕。オフの更改では年俸は2,300万円(推定)になっている〔朝日新聞、2005年7月27日付朝刊、P.30〕。は先発でスタートしたが7月以降はリリーフに回り、前年を上回る60試合に登板。はリリーフ・先発として日本一に貢献したが前半戦は勝利がなく、8月6日の対阪神戦で延長11回に7対7の場面で登板するとファンから不満の声が上がり、4イニングを無失点に抑えて勝利投手となったもののプロの厳しさを感じたという〔。同年の日本シリーズでは第3戦に登板し、1イニングを3者凡退に抑えた〔日本野球機構 1998年度日本シリーズ 試合結果(第3戦) 〕。 4月5日、杉山賢人との交換トレードで近鉄に移籍した。同年はチームがリーグ優勝し、関口もチーム左腕トップの登板数を記録。日本シリーズでは第1戦から3試合連続で中継ぎとして登板している。限りで現役引退し、同年創設された楽天の打撃投手となった〔。横浜の打撃投手を経てより再び楽天の打撃投手を務め現在はスコアラーを務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関口伊織」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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