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関口 隆吉(せきぐち たかよし、天保7年9月17日(1836年10月26日) - 明治22年(1889年)5月17日)は、幕末の幕臣であり明治時代の政治家。字は艮輔。号は黙斎。 == 生涯 == 天保7年(1836年)、江戸に幕臣関口隆船の次男として生まれる。1852年、17歳で父の跡を継ぎ御持弓与力となり、慶応3年(1867年)の大政奉還を幕臣として迎える。翌慶応4年(1868年)の江戸城明け渡しに立会い徳川慶喜を駿河に遷すなど、幕末の戦後処理に尽力した。 明治3年(1870年)には、慶喜のいる遠州城東郡月岡村(現在の静岡県菊川市内田地区月岡)に居を移し、牧之原台地の開墾と大茶園造成事業に着手した。明治4年(1871年)、明治政府に請われ出仕し、上京後、第二代山形県権令(明治6年(1873年) - 明治8年(1875年))・第二代山口県県令(明治8年(1875年) - 明治14年(1881年))を歴任。 1881年2月、元老院議官に就任し、地方巡察使、高等法院陪席判事、第三代静岡県県令(明治17年(1884年) - 明治19年(1886年))を歴任した後、明治19年(1886年)、地方長官公布により、初代静岡県知事に任命された。 明治22年(1889年)4月11日、自身が敷設に尽力した東海道線で列車事故に遭い重傷を負う。この傷からの破傷風が致命傷となり、満53歳に当たる年に生涯を閉じた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関口隆吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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