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関和久官衙遺跡(せきわくかんがいせき)は、福島県西白河郡泉崎村大字関和久に所在する、陸奥国白河郡の郡家跡と推定される遺跡である。白河関を統括する施設とする説もある〔高橋富雄「白河関と関和久遺跡」、『日本歴史』491号、1989年4月。木本雅康「古代伝路の復元と問題点」、『古代交通研究』7号、1997年。 〕。国の史跡に指定されている。 == 概要 == 本遺跡は、阿武隈川の北岸にあり、川が形成した沖積地から河岸段丘上にかけて立地し、東西270メートル、南北約460メートルの長方形をしている。 この遺跡で採取された古瓦が大正末年に学会に紹介され、世に知られるようになった。その後も有志らによって、現地調査や出土遺物の集成が行われ、礎石が確認され、また、古瓦が多賀城で使われている瓦との類似が指摘され、本遺跡の性格付けについて論議された。 1965年(昭和40年)以降に実施された発掘調査で、白河郡家であることが分かり、1984年(昭和59年)7月、国の史跡に指定された。 遺跡は長方形であり、その周りを大溝が廻っている。また、遺跡の中程を東西に川が流れており、遺跡を南北に分けている。南側の一帯から多くの倉庫建物が見つかっている。7世紀末か8世紀初めに、創建当時掘立柱建物であった倉が全面的に建て替えられ、礎石建ちの倉に建て替えられている。いずれも瓦葺きであり、高床式の校倉造であったと推定されている。これらの倉は南北に6軒、東西に3軒が整然と建てられている。その周辺から焼け籾が大量に出土していることから、税として納められた籾が収納されていたと考えられている。一方、北側一帯からは多くの掘立柱建物が見つかっている。ここは古代の役人が戸籍作りや税の出納事務を行った場所であり、この遺跡の中心的施設と考えられている。この一帯では中央部を掘で囲み、8世紀後半には東西に建物を配置する方式が出来上がり、9世紀にはもっと整備され、南や東の塀に門が取り付けられ、内部には2軒の桁行5間、梁行2軒の掘立柱建物を中心に、数軒の建物が配置される。これらの建物群は9世紀の後半に焼失し、10世紀前半に再興されるが、同世紀のうちに廃絶してしまう。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関和久官衙遺跡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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