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関屋敏子 : ミニ英和和英辞書
関屋敏子[せきや としこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せき, ぜき]
 (suf) honorific added to names of makuuchi and juryo division sumo wrestlers
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

関屋敏子 : ウィキペディア日本語版
関屋敏子[せきや としこ]

関屋 敏子(せきや としこ、1904年3月12日 - 1941年11月23日関屋敏子 、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2010年3月5日閲覧。〕〔関屋敏子 二本松市、2010年3月7日閲覧。〕)は、日本の声楽家作曲家である〔。
== 人物・来歴 ==
1904年(明治37年)3月12日、実業家の父・関屋祐之介、母・愛子の娘として東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区)に生まれる〔。父方の家系は二本松藩御殿医であり、母方の祖父はフランス系アメリカ人外交官チャールズ・ルジャンドル、母方の祖母は池田絲である〔。伯父は十五世市村羽左衛門〔。敏子の育った家は敷地2000坪あり、祖父のルジャンドルが購入したものだった〔『日本人歌手ここに在り!: 海外に雄飛した歌い手の先人たち』p75 第4章「歌聖にしてベビーちゃん 関屋敏子」江本弘志著、文芸社, 2005〕。
4歳のころから琴や舞踊、長唄に親しみ、旧制・東京女子高等師範学校附属小学校(現在のお茶の水女子大学附属小学校)に入学、1912年(明治45年)、同校の3年生の時、皇后御前演奏(のちの昭憲皇太后に対する御前演奏)に独唱者として立ち、『春が来た』、『富士の山』を歌う〔。続いて三浦環に師事〔、1914年(大正3年)、初めての発表会を行い、アントニオ・ロッティ作曲の『美しい唇よ、せめてもう一度』をイタリア語で独唱し、翌朝の『都新聞』に「天才音楽少女」と報道された〔。三浦の推薦により、イタリア人テノール歌手のアドルフォ・サルコリに声楽を学ぶ〔。1921年(大正10年)、満17歳で東京音楽学校声楽科(現在の東京藝術大学音楽学部声楽科)に入学するが、同校の主流はドイツ系であり、イタリア系声楽を学んだ敏子は異端視され、中途退学してサルコリに再び師事する〔。
作曲を小松耕輔に学び、1925年(大正14年)に丸の内報知講堂で初リサイタルを行ないデビュー〔。1927年(昭和2年)、イタリアに留学〔、翌1928年(昭和3年)、ボローニャ大学から日本人初のディプロマ(特別卒業証書)を取得する〔。元スカラ座のソプラノ歌手ロジーナ・ストルキオらの指導を経て〔、オーディションに合格してミラノスカラ座に入団〔、プリマドンナとして活躍、ドイツやアメリカからも主演の出演要請を受け、各地を回った〔〔。1929年(昭和4年)に帰国する〔。
1930年(昭和5年)、オペラ『椿姫』で藤原義江と共演、同年10月1日、帝国キネマ演芸が、満26歳の敏子を主演に、鈴木重吉を監督に製作したイーストフォン式トーキー『子守唄』を公開する〔子守唄 日本映画データベース、2010年3月7日閲覧。〕。同作は敏子の最初で最後の映画出演となった〔関屋敏子、日本映画データベース、2010年3月7日閲覧。〕。
その後再度欧米に渡る。自作の日本歌曲なども紹介、1933年(昭和8年)、パリで自作オペラ『お夏狂乱』を発表する〔。翌1934年(昭和9年)帰国、『お夏狂乱』を歌舞伎座で日本初演する〔。1937年(昭和12年)、農林省に務める柳生五郎(1897-?)と結婚するが、4年未満で離婚した〔。夫の五郎は剣術の柳生流の一族である大和柳生藩十三代藩主・柳生俊益の息子で、関屋家の入り婿となったが、敏子の引退を望むなど、関屋家と齟齬が生まれ離縁となった〔。
1941年(昭和16年)11月23日未明、自宅で睡眠薬により自殺した〔。満37歳没(享年38)。自殺の原因として離婚、うつ病、作曲の行き詰まり、声の衰えなどいろいろと取りざたされた〔。自殺の1か月前に起こったゾルゲ事件尾崎秀実が敏子の愛人であったことから、敏子も警察の取り調べを受け、そのショックから自殺したのではないかという憶測まで生んだが、敏子の妹の野口喜美子はこれを否定している〔。敏子は作曲した『野いばら』の楽譜の裏表紙に遺書を遺していた〔。

墓所は横浜市鶴見区鶴見二丁目の曹洞宗大本山総持寺である〔。1987年(昭和62年)7月21日、ビクターエンタテインメントは敏子の音源をデジタル化、『関屋敏子イン・デジタル - 宵待草』をCDとしてリリースしたが、現在は廃盤である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「関屋敏子」の詳細全文を読む




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