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関屋 晋(せきや しん、1928年7月6日 - 2005年4月9日)は、日本の合唱指揮者である。ほぼ独学で合唱指揮者になった。本名は関屋晋(すすむ)。東京都生まれ。 == 経歴 == 早稲田大学在学中の1949年、学生合唱団「早稲田大学コール・フリューゲル」を設立〔関屋、1998年、19頁。〕。大学在学時よりアマチュア合唱団の指揮者として活躍する。 1951年、早稲田大学政治経済学部を卒業。卒業後は一時期会社勤めをしたが、合唱に専念するため、1957年に退職。主に大学、一般合唱団(市民合唱団、職場合唱団)の指揮・指導にたずさわった〔関屋、1998年、20-25頁。〕。 関屋は「専業合唱指揮者」の草分け的存在であった。彼以前の合唱指揮者は他に主たる仕事(教職や作曲、声楽など)を持っていたり、オーケストラや吹奏楽の指揮もしていた。合唱に関する仕事のみで長年生計を立てたのは、日本ではおそらく彼がはじめてである〔戦前から活躍していた合唱指揮者津川主一は歌曲の訳詞や、音楽書の著作、翻訳も手がけた。また、木下保や秋山日出夫は歌手でもある。関屋とほぼ同時期に登場した田中信昭や北村協一はオペラにも関わった。〕。 1963年の日本合唱指揮者協会の創立に参加。1971年第3代,1992年第5代の理事長となる。 1973年、1975年の全日本合唱コンクールで、それぞれ松原混声合唱団、湘南市民コールを指揮して金賞を受賞する。 1979年、湘南市民コールを率いて、ブルガリアのヴァルナで開催された国際合唱コンクールに参加〔関屋、1998年、第2章を参照。〕。 湘南市民コール、松原混声合唱団をはじめ、10余団体の常任指揮者をつとめていたこの時期、小澤征爾に出会う。自身が指揮するこれらの合唱団を集結させて、「晋友会」を名乗り、1980年、小澤指揮、新日本フィル演奏のマーラー「交響曲第8番<千人の交響曲>」に参加した〔関屋、1998年、第3章を参照。〕。 その後も小澤との共演は続き、1988年、晋友会を率いて、ベルリンにて小澤征爾の指揮するベルリンフィル定期演奏会に参加。 オルフ『カルミナ・ブラーナ』を共演し、絶賛を得た〔関屋、1998年、第6章を参照。〕。 これまでに約350公演、70人の指揮者〔共演した指揮者として、ズービン・メータ、ピエール・ブーレーズ、シャルル・デュトワ、ロリン・マゼールなど。関屋、1998年、第7章を参照。〕、35のオーケストラと共演した。また、NHK全国学校音楽コンクールの課題曲の模範演奏でも、合唱愛好者に親しまれていた。 1989年から全日本合唱連盟副理事長となり,1998年退任後,相談役も務めた。 70代になってからも精力的な活動を続けていたが、2005年4月9日、翌日に演奏会を控えたリハーサルの直後に倒れ、死去した。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関屋晋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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