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関東享禄の内乱(かんとうきょうろくのないらん、享禄2年(1529年)‐享禄4年(1531年)は、古河公方家と関東管領・山内上杉家の両家中にて、ほぼ同時に発生・終結した内訌である。相互に関連していると推定されるが、史料が少なく不明確な部分も多い〔黒田基樹 「関東享禄の内乱」 『関東足利氏と東国社会 中世東国論 5』 岩田書院、2012年〕。 == 背景 == 室町時代・戦国時代は、幕府の将軍家をはじめとする多くの武家で、家督争いや嫡流・庶流間の勢力争いが続いた。享徳3年(1454年)に始まる享徳の乱以後、関東武家の中心となった古河公方家、関東管領上杉家も例外ではなく、古河公方家では、第2代・足利政氏から第3代・高基に継承されるときに両者は争い、同時に関東管領家でも、政氏側の上杉顕実と高基側の上杉憲房が家督を巡って争ったため、多くの武家を巻き込んで「永正の乱」と呼ばれた大規模な内訌になった。(詳細は「古河公方」参照) そして、第3代古河公方・高基から第4代・晴氏に継承されるときにも、永正の乱よりは小規模だったものの、再び新たな抗争が生じたと考えられている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関東享禄の内乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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