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関東郡代(かんとうぐんだい)とは、江戸時代に4ヶ所設置された郡代の一つ。 かつては、伊奈氏によって世襲された関八州の幕府直轄領の民治を司る地方官であると考えられていたが、近年の研究によって、伊奈氏が実際に任命されていたのは「関東代官」であり、江戸幕府における関東郡代の職制は伊奈氏改易に対応して設置されたものであること、伊奈氏の「関東郡代」は実際には3代忠治以後の伊奈氏宗家当主が私称していたものに過ぎず、伊奈氏宗家断絶後の再建運動の過程であたかも伊奈氏断絶以前から関東郡代の職制が存在したかのように創作された可能性が高い〔太田尚宏「『関東郡代』の呼称と職制―幕府代官伊奈氏の支配構造解明の前提として―」(所収:『徳川林政史研究所研究紀要』第34号、2000年)〕とする見方が有力視されている。 == 概要 == === 伊奈氏の「関東代官」 === 従来、関東郡代と考えられていた関東代官伊奈氏は、関八州の幕府直轄領約30万石を管轄する。行政・裁判・年貢徴収なども取り仕切り、警察権も統括していた。また将軍が鷹狩をするための鷹場の管理も行っている。 陣屋ははじめ武蔵国小室(現埼玉県北足立郡伊奈町)の小室陣屋。のち1629年(寛永6年)に同国赤山(現埼玉県川口市)の赤山城へと移された。さらに武蔵国小菅(現東京都葛飾区小菅)にも陣屋があり、家臣の代官を配置していた。 徳川家康の関東入府の際に伊奈忠次を関東の代官頭に任じたことに始まり、その後12代200年間に渡って伊奈氏が関東代官の地位を世襲した。1692年(元禄5年)飛騨高山藩領地が天領となった際には6代忠篤が飛騨郡代も一時的に兼務した。また、7代忠順が富士山の宝永大噴火の際に飢民を救うために幕府の米蔵を開けた事で切腹を命じられたが、後年伊奈神社(静岡県小山町須走)に祀られ、新田次郎は彼を主人公とした小説『怒る富士』を執筆している。 本来、関東代官は勘定奉行の支配下にあったが、8代忠逵の代の享保年間には鷹場支配と公金貸付を中心とした「掛御用向」の地位に就き、1733年(享保18年)には勘定吟味役を兼任しており、関東代官は老中の直属支配下に入ることになる。更に12代忠尊の1785年(天明5年)には奥向御用兼帯となり、その2年後には小姓組番頭格となるなど、他の郡代・代官とは別格の地位を築いた。伊奈氏の「関東郡代」自称もこうした特殊な地位が背景にあったと考えられている。ところが、直後に伊奈氏の当主の地位を巡るお家騒動が発生、讒言によって1792年(寛政4年)3月に伊奈忠尊は関東代官を罷免、改易されてしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関東郡代」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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