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この項では関東州(遼東半島先端部と南満州鉄道付属地)における日本人の植民地競馬について述べる。関東州は遼東半島先端部と南満州鉄道付属地(満鉄付属地)からなるが、満鉄付属地の行政権は1937年(昭和12年)満州国に委譲され満鉄付属地の競馬場も1937年(昭和12年)以降は満州国に組み込まれるので、それ以降の満鉄付属地競馬は別項満州国の競馬で述べる。 日露戦争の結果、日本は関東州の租借権を得た。日本人は、最初に大連、続いて奉天に競馬場を作り、さらに安東、旅順、金州、鞍山、撫順、開原、遼陽にも競馬場を設けた。1935年(昭和10年)には関東州の競馬場は7か所になる。7か所のうち満州鉄道付属地内の4つの競馬場(奉天、安東、鞍山、撫順)は1937年(昭和12年)に満州国の行政下に移り(満州国では競馬場はさらに新設・拡大される)、1937年(昭和12年)以降の関東州は遼東半島先端部のみになり関東州の競馬は大連、旅順、金州の3か所になる。 関東州の競馬は最初こそ内地の法律を伺い見ていたものの、関東軍の馬政戦略に組み込まれて独特の競馬を行い、関東庁と関東軍が独自支配するようになった以降は内地の規制から離れていった。競馬の管轄官庁が農林省ではなく関東庁と陸軍(関東軍)であること。馬は満州産馬およびそれとアラブの雑種で競馬を行い、サラブレッドを徹底的に排除したこと。牝馬のみで競馬を行い、牡馬と騸馬を競走から排除したこと。1940年(昭和15年)、関東州に残る3つの競馬場も日本の租借地でありながら日本の法体系から脱却し他国である満州国の競馬法を取り入れ甚だしく賭博性の高い競馬を行ったこと。などの特徴がある。 1924年(大正13年)に奉天競馬場が引き起こした日中間の国際問題は日本陸軍・日本外務省間の対立を招き、関東軍の独走を招く一因にもなっている。 ==前史== 日露戦争までの中国ではイギリス人によって上海や天津〔山崎有恒「満鉄付属地行政権の法的性格」、181-182頁。〕〔外地及満洲国馬事調査書、287頁。〕、ロシア人によってハルビン〔倶楽部1941-1、520頁。〕やハイラル、満州里〔外地及満洲国馬事調査書、416頁。〕、在留外国人によって営口〔満州国現勢康徳3年版、434頁。〕 などで競馬が行われていた。また、旅順付近でも1900年から日露戦争までの間ロシア人が競馬を行っていたという〔外地及満洲国馬事調査書、287頁。〕。 1905年(明治38年)日露戦争の勝利によって遼東半島先端部と南満州鉄道(満鉄)の租借権がロシアから日本に譲渡され、大陸における日本人の植民地経営がはじまっている。 イギリス人が経営する上海や天津競馬の盛況をみて1917年(大正6年)関東州で競馬を企画する者が現れたが、この時は許可されなかった(1923年(大正12年)までは内地でも馬券発売は禁止されている)〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関東州の競馬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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