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関根 達発(せきね たっぱつ、1883年1月17日〔天野1921、p.55〕 - 1928年3月20日〔『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年、p.303〕)は、日本の俳優。 日本映画草創期に活躍した二枚目俳優で、新派俳優から吉沢商店を経て日活向島撮影所に入社し、多くの作品に出演した。その後天活を経て松竹蒲田撮影所に入社すると立ち役だけでなく老け役にも回った。松竹退社後はマキノ・プロダクションの作品に出演した。主な出演作品に『カチューシャ』『山の線路番』など。 == 来歴・人物 == 1883年(明治16年)1月17日、東京府東京市下谷区金杉(現在の東京都台東区下谷)に生まれる〔『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年、「関根達発」の項〕。 渡辺小学校卒業後の1896年(明治29年)4月に海軍予備校(現在の海城高等学校)に入学するが1年で中途退学、下駄屋の職人や製壜所の事務員となる〔岡本1916、p.161〕。1903年(明治36年)、宇都宮の壽座に乗り込んだ某俳優の一座に加入して『文七元結』の仕出しで出演したのが初舞台となる〔岡本1916、p.162〕〔天野1921、p.57〕。その後横浜市役所の臨時雇となり〔天野1921、p.58〕、22歳の時に大阪へ行って山田九洲男の世話で道頓堀・朝日座に出演し、新派俳優として活動を始める。1905年(明治38年)には朝鮮に渡り、仁川・京城・釜山・龍山等を巡業する〔岡本1916、p.175〕。1906年(明治39年)6月、高田実の門下となる〔岡本1916、p.176〕。 1909年(明治42年)、M・パテー商会製作・岩藤思雪脚色の軍事劇『大和桜』が最初の映画出演となる〔〔。1910年(明治43年)夏、吉沢商店の専属俳優となり、藤沢浅二郎とともに同店の俳優養成所の指導にあたる一方、『犠牲』『樵夫の子』『妻君と芸者』など多くの新派劇に出演する〔〔岡本1916、p.177〕。1913年(大正2年)3月、日活向島撮影所に入社、『水郷記』『やどり木』などの新派悲劇から喜劇、連鎖劇まで幅広く主演し、二枚目スターとして人気を集める〔〔。1914年(大正3年)、芸術座が松井須磨子主演で初演した『復活』の映画化『カチューシャ』に主演する。関根がネフリュードフ、立花貞二郎がカチューシャを演じ、舞台で松井が歌った「カチューシャの唄」をスクリーンの脇で女弁士に歌わせて、作品は向島撮影所始まって以来の大ヒット作となった〔。翌年には続篇の『後のカチューシャ』、続々篇の『カチューシャ続々篇』が製作されている。 1916年(大正5年)6月、天然色活動写真(略称:天活)の小林興行部に転じ、次いで独立した小林商会に入って『朧夜』などの連鎖劇に出演するが、1917年(大正6年)7月の連鎖劇興行禁止後は舞台に移る〔。1920年(大正9年)、松竹キネマが創立されると同社の招きで蒲田撮影所に入社し、蒲田の設立第2作『新生』をはじめ『女の力』『虞美人草』『悪夢』『奉仕の薔薇』『法の涙』など30本近い作品に出演。特に島津保次郎監督の『山の線路番』では主役の線路番の老人を演じて渋いうまさを見せた〔。松竹を退社後は、千代田映画社で『乃木将軍』に主演したのち〔、1926年(大正15年)6月9日にマキノ・プロダクションへ入社する〔『日本映画事業総覧 昭和2年版』、国際映画通信社、1926年、p.314〕。『勝てば官軍』『大尉の娘』などに主演したほか、『照る日くもる日』『悪魔の星の下に』などに助演した。 1928年(昭和3年)3月20日、死去。45歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関根達発」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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