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関沢 明清(せきざわ あけきよ、天保14年2月17日(1843年3月17日) - 1897年(明治30年)1月9日)は明治時代の水産官僚。旧加賀藩士。ウィーン万国博覧会で水産業の重要性に触れ、アメリカ合衆国で魚の養殖、缶詰製造を学び、日本で初めて鱒の人工孵化を成功させ、農商務省技師としてアメリカ式巾着網による鰯漁、捕鯨砲によるアメリカ式近代捕鯨を試みた。駒場農学校長、初代水産伝習所長、東京農林学校教授。 == 生涯 == === 藩政時代 === 天保14年(1843年)、加賀藩士関沢房清の第2子として加賀国金沢に生まれた。安政5年(1858年)江戸に出て鳩居堂大村益次郎に蘭学を学び、文久年間江川太郎左衛門に学んだ。 文久3年(1863年)1月横浜で加賀藩が購入した発機丸を受け取り、これに乗り込んだ。慶応元年(1865年)7月発機丸修理のため長崎に行き、10月李白里丸購入の任に当たった。 慶応2年(1866年)8月25日岡田秀之助と共に薩摩藩士新納竹之助のフランス留学に同行し、ロンドンに留学した。明治元年(1868年)帰国し、岡田秀之助、三宅復一と藩校壮猶館翻訳方に加わった。壮猶館、道済館での変則的な英語教育を憂えた三宅復一の呼びかけで、明治2年(1869年)2月壮猶館内に英学所を設立して正則の英語を教え、後に致遠館と呼ばれた。 兵庫港で川崎造船所の経営に関わったとされるが、兄安太郎とする資料もある。 明治4年(1871年)11月藩主嫡子前田利嗣に随行して再び渡英し、明治5年(1872年)9月先に帰国し、新政府に出仕した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関沢明清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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