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関白相論(かんぱくそうろん)は、天正13年(1585年)に二条昭実と近衛信輔の間で発生した関白の地位を巡る争い。これは、この年に羽柴秀吉〔秀吉が豊臣の姓を授かるのは、この一件の翌年の天正14年9月9日(1586年10月21日)であるため、当時の表記にあわせて賜姓以前については「羽柴秀吉」表記とする。〕が内大臣に昇進した事をきっかけとした人事抗争であるが、結果的に当事者の2人を差し置いて秀吉が関白に就任することになり、豊臣政権にとっては大きな画期となる。 == 相論発生以前 == 天正7年(1579年)、織田信長は、それまでついていた右大臣兼右近衛大将の官職を辞任してから、散位の状態のままにあった。当時、大臣が辞任して数年間散位になることは珍しくはなかったが、天下統一を目前にして何らの官職についていないことは朝廷を困惑させた。もっとも信長は、代わりに嫡男信忠の官位昇進の要望を出していたから、朝廷の官位に全く関心がなかった訳ではなかった。 天正10年(1582年)5月、朝廷は安土城の信長に使者を送って征夷大将軍・関白・太政大臣のうちから希望する官職に任じる用意があることを伝えた(三職推任問題)。だが、6月2日(1582年6月21日)、信長は前右大臣の身分のまま本能寺の変で明智光秀に討たれた。このため、信長がこの問題にどう対応しようとしたのかについて諸説に分かれている(拒絶したとする説、征夷大将軍あるいは太政大臣に就任することを内諾したとする説、結論が出る前に討ち死にしたとする説)。 山崎の戦いで光秀を討ち、続いて賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼして信長の後継者の地位を確実にしたのは、羽柴秀吉であった。残る全国の大名との戦いと並行し、天下平定の拠点として大坂城を築城した秀吉は天正13年3月10日(1585年4月9日)、前年に従三位に叙されてからわずか4ヶ月で内大臣に昇った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関白相論」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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