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関谷 敏彦(せきたに としひこ、1963年6月26日 - )は、元競輪選手。現在は日本競輪学校(以下、競輪学校)教諭(教官)。 == 来歴 == 自衛隊出身で、競輪選手の動機理由は、『自衛隊の空挺団員になれなかったので競輪選手になった』〔競輪人国記 山口(5) - リアルライブ 2009年8月25日付〕というものだった。その後、競輪学校第58期生を経て、1986年9月5日、山口県の登録選手として川崎競輪場でデビューし8着。初勝利は同年9月7日の川崎。 1989年の全日本選抜競輪以降、常時特別競輪(GI)に出場するようになり、1990年の高松宮杯競輪では決勝に進出(9着)した。ところが、1990年8月30日に行われた久留米競輪場の開設記念決勝戦で、最終4角付近で落車、転倒した際、右大腿骨の頭骨を骨折した。普通、スポーツ選手であれば、現役引退を余儀なくされるほどの大怪我であったが、関谷は競輪学校の校医だった寺門敬夫のところへ出向き、選手として復帰したいと申し出た〔怪我からの復帰(関谷敏彦の巻 その2) - 「鉄人疾走」松本整オフィシャルサイト 2008年2月26日付〕。その後、奇跡的に回復し、2年間のリハビリを経て、1992年10月に復帰した〔怪我からの復帰(関谷俊彦の巻 その3) 「鉄人疾走」松本整オフィシャルサイト 2008年4月8日付〕。 ところが1999年2月13日、観音寺競輪場で行われたA級準決勝で落車した際、第7頚椎骨折と第3胸椎骨折を起こし、脊髄損傷で下肢が両方共動かなくなってしまった〔怪我からの復帰(関谷俊彦の巻 その4) - 「鉄人疾走」松本整オフィシャルサイト 2008年4月23日付〕。またしても引退危機に見舞われた関谷だったが、約1年後、自力歩行できるほどまでに回復したことから、再び選手復帰を希望。その後、寺門から毎日指導を受け、2002年7月17日、玉野競輪場で約3年半ぶりに競走復帰を果たした〔怪我からの復帰(関谷俊彦の巻 その7) - 「鉄人疾走」松本整オフィシャルサイト 2008年7月11日付〕。 その後、競輪学校の教官試験に合格したことから、2006年10月10日に選手登録が削除された。通算戦績1094戦242勝。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関谷敏彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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