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関 鉄之介(せき てつのすけ、文政7年10月17日(1824年12月7日) - 文久2年5月11日(1862年6月8日))は、幕末の勤王志士で、水戸藩士。桜田門外の変における実行部隊の指揮者で、桜田十八士の一人。三好貫太郎という変名を持つほか、遠・士任・錦堆・桜園・楓巷・丹楓などの別称を持つ。家紋は揚羽蝶。 == 生涯 == 水戸藩士・関新兵衛昌克の子として、水戸上町馬喰町片町(現在の茨城県水戸市栄町2丁目付近)に生まれた。弘道館で学び、水戸学の影響を受けて尊王攘夷運動に乗り出した。安政2年(1855年)、北郡奉行所与力となり、翌安政3年(1856年)2月、郡奉行・高橋多一郎に認められて北郡務方に抜擢され、大子郷校の建設と農兵の組織を行いながら、水戸藩改革派の拡大を進めた。 安政5年(1858年)10月、高橋の指示により大老・井伊直弼に対する諸藩の決起を促すため、鉄之介は矢野長九郎らと共に越前藩・鳥取藩・長州藩へ遊説に赴く。しかし、安政の大獄による尊王攘夷派志士に対する弾圧が行われはじめていたため、十分な成果を挙げられずに江戸へ戻った。安政の大獄が更に進行すると、高橋多一郎・金子孫二郎らを中心とした直弼の暗殺計画に参加する。 安政7年3月3日(1860年3月24日)、桜田門外の変で実行隊長として襲撃を指揮し、直弼を暗殺した。その後、薩摩藩などを頼って近畿・四国方面の各地を逃げ回ったが、受け入れられず水戸藩領へ向かい、文久元年7月9日(1861年8月14日)に袋田(現在の久慈郡大子町)に入って、桜岡家にかくまわれた。しかしそれでも危険が迫り、水戸藩領内を転々と潜伏した後、越後へと逃れたが、湯沢温泉(現在の岩船郡関川村)で捕らえられた。 水戸で投獄された後、江戸送りとなって、文久2年5月11日(1862年6月8日)に日本橋小伝馬町の牢において斬首された。享年39(満)。維新後、贈従四位。墓所は常磐共有墓地(茨城県水戸市)と、小塚原回向院(東京都荒川区)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関鉄之介」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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