翻訳と辞書 |
閻楽 ( リダイレクト:望夷宮の変 ) : ウィキペディア日本語版 | 望夷宮の変[ぼういきゅうのへん]
望夷宮の変(ぼういきゅうのへん、望夷宮之変)、ないし、望夷の禍(ぼういのか、望夷之禍)〔《三国志 魏書六 董二袁劉伝第六》(晋陳寿撰,宋裴松之注)先是,太祖遣劉備諧徐州拒袁術。術死......魏氏春秋載紹檄州郡文曰、盖聞明主図危以制変、忠臣慮難以立権。曩者強秦弱主、趙高執柄、専制朝命、威福由己、終有望夷之禍、汚辱至今。〕は、秦朝の末期の紀元前207年に、丞相であった趙高や、その娘婿である閻楽らが、共謀して二世皇帝胡亥を望夷宮において殺害した事件。 『史記』秦始皇本紀第六に経緯が伝えられている。 == 背景 == 紀元前207年(秦二世3年)の冬〔秦の正月は亥月である(新年が前漢太初暦以降の旧暦より3か月早い)ため、年の初めが冬になる。〕、趙高は、丞相であった李斯を殺害した。その年の夏、秦の将軍であった章邯は敗戦を重ねていた。趙高は何度か使者を送って章邯を責め、これを恐れた章邯は、の司馬欣を派遣して趙高との面会を申し込ませたが、趙高に拒まれたため、司馬欣は章邯のもとに逃げ帰り、「趙高は、将軍を、功を立てても誅殺し、功を立てなくても誅殺するつもりだ」と伝えた。楚の将軍である項羽が秦軍を急追し、王離を捕らえると、ほどなくして章邯は楚に投降した。 以前から、趙高は、二世皇帝胡亥に「函谷関以東を盗むことはさせない(關東盜毋能為也)」と何度も言っていた。趙高は、項羽が王離など秦軍の将を鉅鹿で捕らえる事態となっても進軍を命じ、敗北を重ねた章邯が何度も宮廷に支援を求めたにもかかわらず、これをすべて拒んだ。山東六国では、いずれも国の復興させる動きが起こり、諸侯に応じ、秦帝国東方の地はことごとく秦に反乱を起こした。趙高は、事態に驚き慌て、実情が皇帝にまで伝わる事を恐れた。そこで趙高は、武装反乱を企てるが、朝廷の官吏たちの思惑は分からなかった。秦二世3年8月12日〔二世三年八月己亥。ユリウス暦紀元前207年9月27日。なお当時はユリウス暦実施前であり、計算上の暦日であって当時のローマ暦とは異なることに注意。〕、趙高は「指鹿為馬」事件を仕掛け、これを機に、自分に反対しそうな者たちの粛正を進めた。一方、楚の沛公であった劉邦は軍勢を関中に侵攻させ、使者を送って密かに趙高と会見した。趙高は、機を逃さずに皇帝を除き、自ら王となろうという考えをもつようになった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「望夷宮の変」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|