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閻 行(えん こう、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。別名は閻艶。字は彦明。涼州金城〔現在の甘粛省蘭州市〕の出身。 ==略歴== 屈強な男との評判が若い頃からあり、はじめは韓遂に下士官として取り立てられた。 建安年間の初頭、韓遂と馬騰の間で涼州を巡って争いが起こるとこれに従軍した。この戦いの中で、同じく強者として名高かった馬超と一騎討ちとなっている〔その様子は「閻行は馬超を矛で突き刺したが、その矛が折れてしまったので、残った柄で馬超の首を締め上げ、半殺しにした」と書かれている〕。 197年、韓遂と馬騰の争いを憂慮した曹操が鍾繇を長安に派遣し、両者の調停にあたらせて和睦を結ばせた。 209年、涼州に残った韓遂の使者として、曹操の元を訪れる。賓客としてもてなされ、曹操の上奏によって犍為〔犍為の犍は、「牛」偏に「建」の旁による部首で構成された文字〕太守に任命された〔この当時、犍為一帯は劉焉の後を継いだ劉璋が領有している。曹操が漢中の張魯攻略を計画している事を差し引いても、閻行が太守として即座に就任するのは不可能である〕。閻行側からは、曹操に朝廷内で老父の身元引き受けの便宜を図るよう持ち掛け、その約束を取り付けている。帰還した閻行は、「涼州は軍民ともに疲弊しているので、曹操に早く帰順するべきである」と提言した。さらに続けて「私は実父を曹操に預けると決めました。韓遂殿からも息子を人質として差し出し、帰順を打診してはどうか」と進言した。韓遂はこれらの提案を受け入れた。 この頃、張猛が反乱を起こしたので、韓遂がこれを討伐にかかり、閻行は留守を任された。出先から戻ってきた韓遂は、待ち構えていた馬超達に曹操への謀反の企みを聞かされると、その場で同調してしまい、盟主として擁立される。話を耳にした閻行が諌めても、韓遂は馬超との盟約、曹操への反逆を考え直すことは無かった。 211年、曹操との戦いが始まると、韓遂は華陰という場所で曹操と会談の席を設けた。この時、閻行は韓遂の護衛として離れた所から様子を伺っていた。会談の最中、曹操は閻行に対して「(長安に居る老父に)孝行する事を考えるべきだ」と声をかけた〔この会談は、賈詡が考案して曹操に採用された離間策の一環として行われた策である〕。これらの事が発端となり、馬超と韓遂は仲違いを起して曹操に敗れた。閻行は敗走する韓遂に従って、金城に逃げ帰った。 曹操は、韓遂から人質として預けられていた彼の子や孫を殺害した。一方で、閻行はいずれ自身に靡くと考えていたので、彼の父親を殺す事はせず、一筆したためて説得しようとした。それを耳にした韓遂は「閻行と自分の末の娘を娶わせ、彼を娘婿にしよう。そうしてしまえば、曹操は疑念を抱き、閻行の父を殺すに違いない。閻行も、父を殺されれば、曹操の下に行こうなどとは考えないだろう」と考え、嫌がる閻行を末の娘と無理やり結婚させてしまった。 韓遂の思惑通り、曹操は閻行に疑念を抱いたので、閻行の父親は危険に晒される事となった。 214年、韓遂はそのような事をしておきながら、閻行に別軍を率いさせて西平郡の統治を一任する。閻行は謀反し、韓遂の首を曹操への手土産にするつもりで戦いを挑んだ〔韓遂は閻行の裏切りを知ると、成公英に対し「この苦境に付け込む輩が、まさか身内から生じようとは」と言っている〕。しかし、韓遂が羌族の庇護を求め、羌族がそれを受け入れたために彼を討つ事を諦め、そのまま妻子を引き連れて曹操に降った。曹操は朝廷に上奏して、閻行を列侯に取り立てた。 215年、曹操は漢中侵攻に備え、夏侯淵の軍を涼州から引き上げる事を決定し、閻行を韓遂に対する備えとした。 後に、韓遂が羌族など異民族の軍勢数万人を率いて逆襲を謀ると、恐れた閻行は城を捨てて逃ることを考えた。しかし、韓遂は交戦を前にして部下の裏切りにあって殺害された〔王修伝・注『魏略』の郭憲伝では、病死した後に功績目当ての部下によって首を切られたとされる〕ので、閻行は難を逃れる事が出来た。この後、記録は確認できない。 以上の記事は、『三国志』魏書張既伝に、裴松之によって『魏略』から引かれ、追記された記述が元となっている。 また、小説『三国志演義』には登場しない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「閻行」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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