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坂口 仁一郎(さかぐち にいちろう、安政6年1月2日(1859年2月4日) - 大正12年(1923年)11月2日 〔『新潮日本文学アルバム35 坂口安吾』(新潮社、1986年)〕〔「年譜」(文庫版『堕落論』)(新潮文庫、2000年)〕〔『官報』第3362号、大正12年11月6日。〕)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会)、新潟新聞社長。漢詩人としては阪口五峰のペンネームを用いた。長男はラジオ新潟社長・坂口献吉、五男は作家・坂口安吾。 ==生涯== 越後国中蒲原郡阿賀浦村(現在の新潟県新潟市)大安寺で、父・得七(文政10年3月11日 - 明治39年10月30日)と母・ユウ(1834年 - 明治30年)の長男として生まれる。祖先は肥前唐津にあり、江戸時代初めに加賀の大聖寺、越後の長岡などを経て大安寺に住み着いた。当時得七は坂口家の本家とともに裕福な地主だった。仁一郎は13歳で聖籠村諏訪山の大野耻堂の門人となり、漢学、詩作を学んだ。15歳で大安寺に新居を構え、玉井波磨子を妻に迎える。1874年(明治7年)に父の投機失敗などがあり、仁一郎は東京に出て、耻堂の子の大野楳花の家に身を寄せて、中村敬宇の同人社に通い洋学を学ぼうとしたが、2年ほどで父に連れ戻された。その後新潟へ出て、地租改正にあたって地券を定めるために、新潟米商会所(後に新潟米穀取引所)の創設者本間新作を手伝った。 1879年(明治12年)に本間により米商会所で頭取代理となる。1884年(明治17年)より改進党系の新潟県会議員として、17年間在職し、議長も経験した。1887年(明治20年)からは新潟新聞の市島謙吉、小崎藍川を助けるようになり、1891年(明治24年)に市島が去ったため小崎が主筆、仁一郎が社長となる。またこの頃から「越人詩話」(後に七松居詩話、北越詩話)を新聞に掲載を始める。1889年(明治22年)には三子をもうけた妻・波磨子が亡くなり、1891年(明治24年)に後妻に吉田朝子を迎えた。 1902年(明治35年)、衆議院議員に当選。8期務め、1905年(明治38年)には満鮮戦地視察に赴いている。憲政会党務委員長、県支部長なども務めた。東京では日本橋元銀町樋口屋、後に戸塚に居住。1920年(大正9年)に発病、胃癌と診断されたが腹腔内腫瘍だった。この頃から蘇庵、更生同人と号する。1922年(大正11年)に新潟で中学を再落第・放校のおそれのあった安吾を戸塚に呼び寄せ、豊山中学校に編入させた。1923年(大正12年)11月に在職中のまま病の悪化により、細胞肉腫、後腹膜腫瘍で死去。大安寺の坂口家墓所に葬られた。 資料に坂口献吉『五峰余影』(1929年、増補1954年)がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坂口仁一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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