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阪本 三郎(さかもと さぶろう、1867年11月11日(慶応3年10月16日)〔『人事興信録』第4版、さ57頁。〕 - 1931年(昭和6年)4月14日〔『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』552頁。〕)は、日本の検察官、裁判官、内務官僚、教育者。憲政会系官選県知事、早稲田専門学校長。「坂本」と表記される場合がある。樋口一葉の婚約者(旧姓・渋谷)であったことで知られる。 ==経歴== 武蔵国南多摩郡(後の町田村、現町田市)出身。渋谷徳治郎の二男として生まれ、1892年8月、阪本タカの養子となる。祖父・真下専之丞(晩菘)の融貫塾、近在の小島韶斎塾、耕余塾で学ぶ。1888年7月、東京専門学校法学部を卒業。1890年12月、文官高等試験に合格〔〔『新編日本の歴代知事』499頁。〕。1891年1月22日、司法官試補に任じられ新潟地方裁判所詰となる〔『官報』第2269号、明治24年1月24日。〕。 以後、三条区裁判所検事、新潟地裁検事、相川区裁判事、新発田区裁判事、新潟地裁判事、水戸地方裁判所判事、東京地方裁判所判事などを歴任〔。1900年8月、ドイツ帝国に留学し、1903年10月、ドクトル・ユーリスの学位を取得して帰国した〔。 帰国後、東京控訴院判事、早稲田大学専門部教授兼理事、行政裁判所評定官兼法制局参事官などを歴任し、1913年6月に休職となる〔〔。 第2次大隈内閣が成立すると、早大関係者として1914年4月、秋田県知事に登用された。法律を駆使して「原案執行知事」と呼ばれた。また、秋田勧業私案、雄物川改修事業諮問案の県会での可決に尽力〔『新編日本の歴代知事』172頁。〕。1916年4月、山梨県知事に転任。同年10月、大隈内閣の退陣により知事を辞任し退官した〔。 その後、母校に復帰し、早稲田専門学校長、早稲田大学維持員、同大出版部監査役のほか、東北興業 (株) 社長、神中鉄道 (株) 監査役なども務めた〔『人事興信録』第8版、サ98頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阪本三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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