|
阪谷 朗廬(さかたに ろうろ、1822年12月29日(文政5年11月17日) - 1881年(明治14年)1月15日)は、日本の漢学者、儒学者。江戸時代末期は教育者として、明治維新後は官吏としても活動した。東京学士会院議員。 名は素(しろし)であり、阪谷素名義での著作もある。朗廬は号である。幼名は素三郎、通称として希八郎も用いた。 阪谷芳郎(元大蔵大臣、東京市長)の父。 == 来歴 == 1822年、備中国川上郡九名村(現在の岡山県井原市)で、代官所に勤めていた阪谷良哉の三男として生まれた。 6歳の時に当時父親が勤務していた大坂へ移り、最初に奥野小山、次いで大塩平八郎のもとで学び、ここで才能を見出された。父親の転勤に伴って11歳で江戸に移転し、同郷の津山出身である朱子学者の昌谷碩(精溪)に入門した。さらに17歳で古賀侗庵に師事した。26歳の時、病床にあった母親の世話をするため帰郷。 1851年、伯父で蘭学者の山成奉造(山鳴大年)の協力により、実家の九名村から少し離れた簗瀬村(現在はともに井原市の一部)に桜渓塾を設立。1853年には代官所が郷校として興譲館(後の興譲館高等学校)を設立するにあたり初代館長に就任するなど、地元で後進の指導にあたった。幕末動乱のこの時期、朗廬は開国派の立場であったとされる。 1868年に広島藩から藩儒として迎えられたが廃藩置県で辞職。1871年には再び東京に転居し、明治政府の陸軍省に入省。その後文部省、内務省などの官職を歴任した。また福沢諭吉らとともに明六社に参加、唯一の儒学者として活動した。1879年には東京学士会院議員に選出された。 1880年には再び教育を行うべく春崖学舎を設立したが、翌1881年に小石川の自宅で病没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阪谷朗廬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|